栗本 薫 真夜中の天使5 [#表紙(表紙5.jpg、横180×縦261)]     21  良は、しだいに手に負えなくなってくるようだった。生来の気まぐれと投げやりさがだんだんつのる一方で、我儘の頭を押さえるものはいまや何もなくなっていた。  滝はかっとなればさいごには手をふりあげるのをためらわなかったし、それがなお良の心を滝からひきはなしてしまうことはわかっていながら、奇妙な自虐と嗜虐の入りまじった思いから、しだいに彼の中の粗暴さは、彼をひきとめていたうしろめたさに打ちかっていったが、良は滝に動物的な恐れを抱くと、手っとり早くそれを逃れるためになおいっそう、その場かぎりのでたらめや叱られたくないばかりの嘘をまき散らすようになった。  最も滝を怒らせるのは、良のばかばかしいほどの着るものへの執着とわけもない癇癪だった。音合わせのきこえてくる楽屋で、地方巡業のホールの控え室で、TV局のメーク係の手の下で、良は激しく苛立っては駄々をこねた。  おとなしい隆が困惑して泣きそうになる。良はいっそう苛々して足を踏みならし、衣装を投げつけ、隆にくってかかる。たいてい、出の前にひと騒ぎあって、それはほとんどいつも滝が怒って怒鳴り出すまでやまなかった。 「なんだ、何が気に入らないんだ!」  滝が険悪な顔を出すと、たちまち、いままで隆を小突きまわしていたのが嘘のように、良は白い目をして黙りこくってしまう。あと十分でさいごのリハだというのに、良は下着一枚の裸で、ふてくされて滝をにらみつけている。隆はおろおろして投げ散らされた衣装を片付ける。  滝がかさねて怒鳴ると、やっとのことで良は口を開く。それはたいてい、云っといたのにあっちの白のブラウスを入れてない、とか、照明が黄なのに青の方を持ってきた、とか、これこないだ着たばっかりなのに、とかいったたわいのない我儘である。  滝は業を煮やして手当りしだいにひろいあげてほっそりした裸身に投げつけた。 「これでいいじゃないか。どこがわるい」 「ホリゾントが白なのに白のブラウスでひきたつわけないじゃないか!」 「じゃこれでいいだろう」 「だからこれこの前着たんだってば!」 「そういつもちがったものを着せられるか、女じゃあるまいし」 「だってアクセサリだってそっちにあったの持ってきちゃったんだ。いやだよぼく、金のベルトついてるのに、こんなブレスレットして出るの。隆が気がきかないからわるいんだ。いつまでたっても覚えない!」 「良! 大概にしろ、あと五分しかないぞ、この黒でいい」 「それいやだってば」 「何故だ」 「だって──だってそればっかり着てるじゃないか」 「似合うからいいだろう」 「似合うもんか!」  そんなことばに欺されるものか、という反抗的な気構えで、良は滝をにらみつける。  メーク係も、のぞきに来た照明係も、居心地わるげに顔をそむけている。目を白く光らせて反抗心をみなぎらせている良のふくれ面は、妙に子供っぽく、しかしとことんふてぶてしくて、機嫌のいいときの可愛さの影もない。  時間は迫ってくる。滝はほんとうに怒り出して手をあげようとし、良はびくっと身をすくませ、隆があわてて庇い、さいごには不承不承予定どおりの衣装にすべりこみながら、いつも同じだの、北川のママはいつでもぼくになら新しいの作ってくれるって云ってるのに、滝さんがけちるんだのと、また叩かれるのを警戒しながら不平不満を並べつづける。どうやら滝のいないところでは、苦労人でおとなしい隆に当りちらしてうっぷんを晴らしているらしかった。  何もそれは衣装にかぎらず、髪型が思いどおりにならない、楽屋の設備がわるい、バンドが気にくわない、仕出しの弁当がまずい、かけもちが気に入らない、滝は自分を消耗品のつもりでいる、と何でもが我儘の種になる。それでいて、TV局の楽屋などでよそのプロの一行や局員など、あまり親しくない──つまりは良が自分の王国の人民だとは見做していない人間が一緒だと、絶対にそのつまらぬ癇癪を起こさない。きこえぬようにぶつぶつ云いつづけるだけだ。  ファンだの、後援会だのがいると、嘘のようににこにこして愛想をふりまいて──それとてもごく冷淡な、生来投げやりで愛嬌のないこの少年にできる範囲でにすぎなかったが、サインでも握手でもいやがらずにやる。  局の守衛だの、食堂のウエイトレスだのには、機械的にちらりと笑顔を見せるだけで、問題にもしなかった。目上の者、利害のある者へは、例の純真そうな媚態で気に入られようとする。  良のよくない、行きあたりばったりな性格はつのる一方に見えた。滝が注意すると──注意しはじめれば、種はうんざりするほどあった──いつ危険範囲に入るかと半ば警戒し、なかば居直って、必ず口答えをする。 「だってしょうがないよ」 「だってぼくのせいじゃないや」 「だって滝さん云ったじゃないか、偉い人に可愛がられなきゃだめだって」 「だからって媚を売れと云ったんじゃない。プライドってものがないのか」 「だって──」  云いつのると必ず露骨にうるさがる顔になり、何がどうだってかまうもんかという態度になり、開き直り、滝が本気で怒って暴力になるようならたちまち退却しようというかまえだ。滝の怒りははぐらかされ、内にこもり、くすぶりつづける。  良に手をあげてみても、事態はますますわるくなる一方である。そして、そんなふうに苛立たされながら、大騒ぎをして舞台に送り出し、さてやれやれとなってモニター・カメラなり、客席の隅なりから見ると、ステージの上で、いまの始末はまるきり嘘のように、良は清らかに、美しく、ファンを熱狂させるアイドルの顔を見せているのだった。  良の目はさえざえと輝き、肌はすきとおるように白く、その声は甘いひびきを帯びて心にしみこんでくる。蝶の舞うような、ハンドマイクを持ちかえる手のひらめき、鋭角的な振りのたびにからだに快よげにまつわりつくゆったりした衣装、ライトにきらめくたくさんの装身具。  大写しになった良の顔は非の打ちどころのない端麗な造作に、心をいたませる悲恋や、胸を打つ熱情や、汚れをしらぬ真摯さの与えられた激情をまといつけ、眉根が寄せられ、手はふりしぼるようにさしのべられ、ほっそりときゃしゃなからだはいたいたしくよじられる。悲哀のなかにものうさが、けだるさの影に清澄さが、それぞれひそんでいる、良の歌は、ちょっと真似のできるものがいない。うまいというよりはむしろ独特なのである。  華麗な人形──ひとびとは、そのあらゆるもののきらめきを内にひそめた純白、虹の七色の光を封じこめたダイヤの透明にも似た少年の映像の上に、どんな夢をでも見ることができる。  ファン・クラブは、公認されたものだけで五万人を数え、良のゆくところにはどこでも、熱狂したグルーピーたちが待ちうけていた。 「ジョニー」「ジョニー、こっち向いて」その我を忘れた無心な熱狂の叫びを、滝はいくど羨んだことだろう。最も輝かしい幻影はつねに彼女らのものなのだ。 「ベスト・アイドル賞」「ベスト・ドレッサー賞」の受賞、映画に主演の話──これは検討の上、滝が丁重に断った──二度目の全国縦断ツアーの大成功、初の結城修二─中村滋コンビの曲『明日なき恋』のミリオン・セラー、つづく『甘い関係』も大ヒットのきざしをみせている。そうした常にまばゆいライトの中で、良の性格ははびこり、発展し、頭を押さえられもせぬままに野放図に君臨している。  良を取り巻く人びとは、すでに、良という少年の手におえぬ癇癪や我儘は知り尽しているのだった。知らずにはいられなかったのだ。  だが良の我儘は、その魔力と嘘はそのやさしさと、癇癪は潔癖と、高慢は高貴さと、それぞれもつれあい、まざりあっていて始末におえない。  遠くから見つめて憧れているものは知らず、日夜良を取り巻くたくさんのスタッフたちは、良のそうした性格を幻影でつつんでいるわけにはいかなかった。  かれらは良が気まぐれに怒り、気まぐれに機嫌を直すのを見る。隆に当りちらすかと思うと、やってきた結城、または後援会のお偉方あたりに掌をかえしたようにおとなしげな笑顔をみせるのを見る。良が突然いかにも悩みありげに大きな瞳でのぞきこんでやさしいことばをかけるかと思うと、次の日にはうるさがって地団駄を踏んでいるのは、誰かれなしに食うことである。  良の、性どころか接吻ひとつ知らないといってもとおる、純潔な目、冷んやりした皮膚にみとれるものも、良がきょうは歌手の誰それに誘われたから、きょうはディレクターの誰が色目をつかったからと節操のない乱れた生活を送っているのを知らずに済ますわけにはいかないし、滝に激しく口答えしている生意気な様子を見ないわけにもいかない。  だが、それさえもが良にあってはなんという蠱惑だっただろう。良は自らの君臨を疑ってみることさえ許さぬようだった。そのしなやかな肢体、浮彫の少年像のような可憐な顔、息づく大理石のように胸苦しささえ誘う皮膚は、ライトと熱狂と栄光、ひとびとのその上に抱くあやしい幻影を歌うたびに身にまとう悲劇の色あいによっていやが上にもはびこっていく、さいげんなく讃仰をむさぼる軟体動物のようだった。  良のいよいよ磨きあげられてきた、不埒なまでの美しさを無関心に見すごすことは不可能だった。たとえ、憎むことならできるにしても。──誰もが良を信じていない。それでいて、誰もが良を愛していた。崇拝しているとさえ云ってよかった。  この崇拝には憎悪と憤懣の毒が混ざりこんでいた。良を取り巻く人間関係は、嘘ととりつくろいと、熱っぽい怒りに満ちた欲望でぬりかためられているようだった。  そしてもちろん、結城がいる。良がただひとり、一目置いている結城、畏れと、稚い恋情の芽生えを、その投げやりで冷淡な心の中につつんでいる結城──彼は、良のその感情をゆっくりと育て、摘みとるプロセスを味わい、楽しんでいるように、急がなかった。  良が反撥すればかるくいなし、良が慕い寄ると押さえつける彼の自在な手綱のとりかたは、恋のきざしを心ゆくまで賞味するのに似ていた。千田麗子と別れたのは自分のためなのだと知らされた、はじめて一緒に出歩いた夜以来、良がそれまでの誰かれと同様に、結城が良の新しい愛人、兼保護者として名乗りをあげたのだと受けとったのは、当然である。  だが、翌日レッスンにあらわれた彼の様子には何ひとつ、甘やかな恋の息吹を漂わせたところはなく、愛撫の手ひとつのばすでもなかった。それどころか、いつにもましてレッスンは厳しかった。 「何をぼやっとしてるんだ? もうあと三回でレコーディングなんだぞ。気を抜かない! ほらほら、この前云ったことを全部忘れてる、僕の云うことを何だと思ってきいてるんだ? 三度以上同じ注意をくりかえさすなら、もう知らんぞ。さあ、しゃんとして背筋をのばして! ふくれっ面をしない!」  甘やかして貰えるあてがはずれて、あらためて良は反抗心のかたまりになり、レッスンが済んでどこかへ行こうと云いだしてもきくものかと決心したが、結城はその良をじろじろ見て、突然笑い出してひきよせ、乱暴に接吻しただけで、別に遊びに連れていってやるとも、良の怒りをとくようなことも云わなかった。 (僕はゆっくりと、きみを飼い馴らしてやるつもりだよ)  結城は、そう云ったことばを、しだいに良の骨身にしみて思い知らせるようにした。良はたちまち、飼い馴らされたりするものかと、反対に結城の方を自分の奴隷に仕込んでやろうと堅く誓い、ことあるごとに反抗し、手管を使い、嫉妬させてやろうと前にも増して行きあたりばったりに誘いに乗ったり、それをたちまち後悔したりしたが、結城の方がさらに一枚うわ手で、一切素知らぬ顔でとおして、ただときたま愛撫を求めたり、どこかに連れていってやると云ったりした。  良は三回に二回は手もなくはねつけて復讐の快感を味わったが、結城は悲しそうな顔をして良を内心しょげさせてしまうか、平気で笑い出して、それなら誰それと行こうなぞとわざと云って烈火のように怒らせるばかりなので、その快感は一瞬しかつづかなかった。  一カ月あまりはそうして結城との遊戯にも似た拮抗のうちにすぎてしまった。結城と良の間はいっこうに発展せず、一方互いの内心からいえば、深まりつづけたともいえた。  良は例のどうでもいい気分から、成行きまかせに遊びに誘われればついてゆき、怒られれば反抗し、仕事をし、サインにプレゼントとそれまでどおりの生活をつづけていたが、心はすっかり結城のことに占められてしまっていた。  良の周囲の、隆や杉田サブマネや佐野や吉田なぞは、結城と良のとばっちりをくって、良の不機嫌だの、倦怠だの、うきうきした気分だのを思うままにあびせかけられたが、いちばん苦しめられたのはもちろん滝だった。  良と結城の関係がいっそ、行きつくところまで行きついて、誰の目にも似つかわしい生きた神話の一対としてさだめられてしまうなら、まだ滝の苦痛は致命的ではあっても、ここまで酷い、持続する拷問に似かよったものではなかっただろう。  最も苦しいのは常にむなしい希望、それをすてていっそ焼き尽した心の灰の中に静かな絶望的な平安を見出すこともできず、それがつのりかけてはたちまち叩きつけられ、たえずあおられてはくじかれる、いわばたえまなしにゆっくりと殺されつづけているような生殺しの希望なのだった。  二人の、その奥にひそめられた運命的なひきあいの強さをかえってあからさまに悟らせるような、ためらいと恐れと反撥と足踏みがそれ以上つづいたら、そしてこれ以上、良との不和などどこにもなかったという顔をして誰かれなしににこにこしてみせ、人前では至って穏和なマネージャー族の仮面をまといつづけねばならぬのなら、おれは気が狂ってしまう、笑いつづけている顔が永遠にこわばってひびわれてしまう、と滝は思った。  事実一度か二度は、彼のすべての持って生まれた気性、生き方、信条、にさからって、あえて自尊心を投げすてようとさえこころみた。ありていに云って、良に仲直りを申し出ようとしたのである。その結果はわかりきっていた。 「なあ、良──おれたちは、互いに少し誤解しているんだと思わないか。お前は、おれがお前のことを怒っていると思ってるんじゃないか? もしそうなら、いっぺん云いたいことは全部云ってもいいから、さっぱりしたら──」  ほとんどおずおずした滝の云い分は、いまや彼など眼中にない良に鼻であしらわれたのである。 「へえ、何? ぼく何も滝さんに怒ってなんかいないよ。滝さんだって、ここんとこ別にぼくに云うことないんでしょう。ぼくだって、このところずっと|いい子《ヽヽヽ》にしてるものね」 「それはそうだが──そうじゃなくて……」 「変なの! 滝さんらしくないね、なんだか」  滝がどう焦っても、じれても、良は、いったん心を閉ざしたら、そうたやすくふたたびその扉を開いてくれはしなかった。まして、いまや良にはそんな必要性はみじんもなかったのだ。  鼻さきをやすりでこすられて、滝は投げすてたはずの自尊心が煮えたぎって、しばらくは嫉妬の苦悶さえ忘れられるくらい、良に腹を立て、そっぽを向いていることしか考えなかった。  しかし滝の無視は、良の無邪気なとさえ云っていい無視──いわば閉め出しに、単に対抗しようとするだけのものだったから、それは良には何にもならなかったばかりか、滝の方を深く苦しめたにすぎなかった。それでも滝は良とこれからずっとこんな、冷たい職業上だけの関係しか持てないで生きてゆくわけにはいかなかった。  滝はもう一度だけ、自尊心をすてようとこころみた。というより、むしろ、それにすがろうとしたと云った方がいいかもしれない。 (俺は、悪党の滝俊介だ。卑劣で汚ない二枚腰の、目的のためには手段を選ばぬ人間だ。なら、そうすればいいじゃないか。おれは何を上品ぶって煩悶しているんだ? 真におれらしいのは、むしろ良に知らせずに、こそこそ動きまわることじゃないか)  彼が結城修二を話があるからと、他の用にかこつけて呼び出したのは、こうした思案の結果だった。彼は相手の方では夢にもそう思っていない恋敵と、尾崎プロの彼の部屋で用談を済ませたが、そこで切り出す決心がつかないで、表の珈琲店に誘った。  彼は恋敵なのだと自らに云いきかせてもなお、この美貌のアリストクラートが好きだったし、彼の前で自らの卑劣さを思うのは、身の熱くなる思いだった。  だが、結城に、このまま良を渡すわけにはいかないのだ。 「二日にはミリオンが出ます」  滝は向いあった珈琲店の片隅で、人当りのいい微笑をうかべ、サングラスごしに、人なつこい笑いを目もとにうかべている結城をうかがってそう切り出した。 「おかげさまで、良の奴もすっかり先生になついているようで──いつも、可愛がっていただいて恐縮です」 「いやいや、そりゃ、僕の方が云うことだよ。滝さんの大事なジョニーを預かって、あの子に嫌われたら、あなたにまで憎まれるところだものね」  結城は屈託ない、しかし何となく滝の心にはひっかかる表情で笑った。 「どうなのかな、ミリオン記念のパーティでもするの」 「そんなこともちょっと考えておりますが」 「あの子は、喜ぶだろう、お祭り騒ぎが大好きなんだから」 「お調子者ですから──ところで先生」 「ああ?」  結城はすでに、滝の云おうとしていることを、勘づいているような気がしてしかたがないのだったが、おそらくそれは彼の中に残っているこの男への好意の疼きだったのだろう。 「おききになりましたか──山下先生のことですが」 「山下君?」  結城はさまになったしぐさでケントを唇の端にはりつけ、ちょっと手をひろげてみせた。 「そういや、このところ冴えないようだね。何しているの、彼」 「荒れてるそうですよ。エミリーの新曲が全然いけなかったでしょう。ベスト三十に入らずに落ちちまいましてね。あれがけちのつきはじめっていうわけですか、先生スランプに落ちられまして」 「彼も意外と気分屋だからね」 「別に、結城先生のお気にさわるようなつもりは全然ないんですよ」  滝は念を押した。 「正直云って、私は先生には弱いんですよ──それが私の泣き所なくらいで」 「よしてくれよ、あなたにそんなこと云われると、あとが怖いよ」  結城は皮肉そうににやにや笑った。 「で?」 「まあ──一部には、やっぱりあれは、──つまり『裏切りのテーマ』以来のたてつづけのヒットですな──あれは、ジョニーにおかげをこうむってるんだ、ジョニーの人気であって曲のせいじゃないのがわかったなんていう連中もいますしね──いえ、そりゃ、結城先生とあちらじゃ格がちがいますから」 「うるさい奴がいるからねえ。で? 彼も、せっかくあれでいいとこまではねあがるチャンスをつかみながら、逃しちゃったわけか。僕は、彼の才能はかうんだけどなあ──でもまあ、一曲二曲不発だったってね。僕だって、オクラ入りがいくらもある」  格のちがう貫禄で結城は云った。滝は眉を寄せた。 「それが──あちらは、だめになっちまったんだってのが、もっぱらの噂でしてねえ」 「なぜまた」 「エミリーがだめで、そのあと三つか四つ書いてるんですが、どうもこれまでみたいなオリジナリティーがない。そこへもってきて、先生少しアル中気味なんですな。で仕事ぶりがひどく荒れましてね。どっかの馬鹿な市会議員が、なんとか会館の何十年記念会とかで、なんとか音頭ってのをとか云って話を持ちこんだそうです。大体、そんなのあの方にお門ちがいで、それこそ吉村先生だの、佐久先生だのに持ってく話ですよ。でもまあものには礼儀ってものがありますねえ。そしたらその議員どのへ、彼、ばかにするなってわめき散らしたそうです。ええ、白昼べろべろに酔ってましてね。おれはポップス大賞受賞者だ、なにが何とか音頭だって。ところがそれ、詞はもう西田先生がやってらしたんですね」 「西田の大将が?」  結城は嘆息した。 「ばかだなあ、山ちゃんは」 「ええ、それで市議はわめくし、西田先生は若造がおれを侮辱するかっていう権幕で、松浦さんだってあちらの息がかかってますからね、いまや四面楚歌で、それもあって毎日毎晩ぐだぐだに酔っ払って、あれじゃ遠からず大名行列を見るんじゃないかって──こりゃ、『ライト』の村さんの台詞ですがね」 「可哀そうに」 「それというのもうちの悪戯小僧にふられたいたでがまだ尾をひいてるんだ──って、これも村さんですが」 「滝さん」  結城はゆったりかまえていたが、ふいにこころもち目を細くした。 「あなた、何が云いたいの。ジョニーは怖いぞって含みらしいね、それは」  滝は肩をすくめた。 「あの子は、あまり──私がこんなことを云っちゃ何ですが、あれを拾って、今日まで手がけている私だからわかることもあります。あの子は、あまりたちのいい子じゃありません。どういうものか山下先生はひどく可愛がって下すって、あれこれ買っていただいたり、あれだけ遊びに連れていっていただいたりして、あれもなついてたようだったんですが、そうなればなったで──」 「一時、噂だったねえ、あの子が彼をすてたんで、彼が大騒ぎをやらかしたとか何とか」 「さあ、そんなことは存じませんが、いずれにせよ、あちらは、ちょっとした、腑抜け同様らしいですな。お得意のゲイバーへもあまり見えないで酒びたりってとこでしょう。まあ全部が全部あれのせいだなぞとは思いませんが──何といっても十八の子供ですからね。しかし──」 「なるほどね」 「こんなことを申しあげたからと云って、下司のかんぐりだなんぞとお思いにならないで下さいよ」  滝は云った。 「正直なところ、私はあちらをお気の毒とは思いませんのです。実際問題として、あの方がむやみとあの子を甘やかして下さるもので、あれはすっかり増長しちまって、私のしつけもどうも脱線気味でしたのでね。しかし──変なことを云うようですが、私は、結城先生が好きなんです。立派な方だと思っています。先生はあちらとは人間の出来がちがうとは思いますが、それでもうちのあの我儘小僧があまり先生先生と云うのをきくと──一時は、あちらに、先生先生とやってましたからね……こんなことを云っちゃ、要するに私の育てそこないを白状するようなもんですが、そういう奴です。上調子で、嘘つきで、私の手には負えません。年のわりに頭も稚くて、どうも──結城先生のようなかたに目をかけていただけるような子とは──思えんのですな。だからつい心配になるわけです。まして山下先生のそういう……」 「滝さん、あなたは、冷酷な人だねえ」  結城は低く笑い出した。 「よかろう、いまさらきどったってはじまらない。僕は、ジョニーが可愛いし、──僕のものにしようと思っているよ。──云っておくけれど、|まだ《ヽヽ》、してはいないがね──あの子は、きれいで、魅力がある。たしかにいい子だとは僕には思えないし、山下君のことも知ってるよ。一時の嫉きぶりたるや、気狂いじみてたっていうじゃないの。またそれだけのことはある子だね。生まれながらのヴァンプというのかな──男を逆上させ、ひきずりまわすようなところがある。だが──ねえ、滝さん、あなたは、自分の手がけているあの子より、僕の方が心配なのかね。僕がそんな頼りないグレートヘンに見えるかな。それともそれは、うちの商品に手をつけられては困るという謎かね。それなら、はっきり云ってほしいな、僕はあけすけにぶちまけるのが好きなんだ。それとも」  ふいに結城の目が、火を放った。激烈な意志がまともに滝にぶつかってきた。 「それは、男としてのあなたの嫉妬か?」  滝はサングラスをむしりとった。彼は自らの目が、一歩もひかぬ鋼鉄のすごみをうかべていることを感じた。 「それはちがう。私はあれのマネージャーだ、それだけのことですよ。私はあれをスーパースターにするためには、手段を選ばないで来た。あれを愛していたらできないようなこともしましたよ」 「僕が、良の前途のさまたげになるというのか」 「そうじゃありませんよ」  滝はゆっくりとサングラスをかけ直し、口辺に微笑をうかべた。 「困りましたな。私の善意に他意はないと信じてはいただけませんかね。悪党の滝だって、たまには心から親身で行動することもあるんですよ」 「信じられんなあ」  結城の目から、すさまじい青いきらめきが消えた。結城はにやりとして滝の微笑に答えた。 「僕は山下君じゃない。たかが十八の少年に鼻面をとってひきまわさせやしないよ。といって、別に、良のためにならないようにはしたくないが。僕にはわからんね、どうしてあなたがそんなことを云うのか。僕は良が可愛い、あの子の曲を書き、あの子を連れて歩き、僕のささやかな力でひきたててやりたい。あなたは良を日本の最大のスーパースターに育てあげたい。そのために、どんな手段でもとる。我々の利害の、どこが相反する? あなたは良の相手に僕では不足だと思うわけ?」 「とんでもない、先生。先生のような方の相手に良では、先生に傷がつくと思うだけです。先生は何もご存知ないようですな」  見てろ、良、と滝は血みどろな快感が神経中枢に異様な昂奮をかきたてていくのを感じながら思った。これがおれだ。卑劣漢、裏切者、舌先三寸で毒を滴らせる暗殺者。お前のためなら、おれはどんなことでもする。 「山下君のことなら知ってるさ。気には、しないよ、僕にだっていくらでも過去がある」 「山下先生がなぜあんなになったか──良と別れたか、ご存知ですか」 「いいや」  結城の眉がぴくりと動いた。滝は残酷な喜びを感じた。 「あの子には、先生のご存知ない──おそらく想像もつかないことがあるようですな。先生はあの子の顔や、妙に子供っぽい態度しかご存知でない。あの子は、悪魔ですよ。そして、それはおそらく、私が望んでそのように育てたのかもしれませんがね」 「あなたらしくもない、ロマンチックな云いぐさだねえ」 「じゃあ、根っからの淫売だと云い直しましょうか。あれには、意志の力とか、節度とか、倫理の観念といったものが、ほとんどないんです。私は──私だけは、あれのそんなところが気に入っているわけですよ。あれは私の作品です。私の理想にかなった、天使の顔をした悪魔、その毒で世界をむしばんでしまう悪の花、私の丹精している麻薬です。しかし、結城先生、私がそんなことを云えるのは私があの子を欲していないからですよ。あの子を欲しいと思い、あれのとりこになったら、もう、おしまいだ」 「いよいよ、あなたらしくない。≪|宿命の女《ラ・フアム・フアタール》≫か、滝さん? お互い、まわりくどいことはよそうや」 「いいでしょう。山下先生は、誰も、私以外知らんことですが、良を殺そうとしたんですよ。包丁をふりまわして──私から、以後いっさい近づいて下さらぬように、そのかわり、なかったことにしますからと云って、おひきとり願いましたが、その直接のきっかけになったのは、白井先生と佐伯さんのことでした」 「白井みゆき──知ってるよ、あれだけ噂になった相手だ、別に驚きゃしない。あのひとにあの子を紹介したのは僕だぜ。いいだろう、僕は、あのひとの鼻さきから大事な坊やをかっさらってみせてやるよ。僕もそういうゲームが好きなたちだ」 「先生、だとすると、佐伯さんも、勘定に入れなくちゃいけませんよ」  滝は、自分が、ひどくゆがんだ残酷な表情をしている、と思った。結城の眉間がまたぴくりとし、今度はたて皺が消えなかった。滝はこの美貌の男の心に鞭をあてることにひそかな快感を覚えはじめている自分を知った。  結城はその若い色男《マクロー》をさげすんでいる。佐伯のライヴァルなぞと見做されるのは、彼の自尊心には耐え難いはずだった。 「なるほど、|宿命の女《フアム・フアタール》だな。三角関係のみならず、四角関係ってわけ?」  結城の声に何かこれまでとちがったものが忍びこんでいた。動揺と怒りであろうと滝は思った。 「あの年で、いい年をした男ふたり、女ひとりをあやつってたってわけ? あっぱれな坊やだな。そこまでいってるとは思わなかった」 「先生は何もご存知ないと申しましたでしょう。実のところ、それだけなら──先生は、マルコビッチ事件をご存知でしたか」 「マルコビッチ──知っている。アラン・ドロンの用心棒殺しだ。奴の、ベッドの相手でもあったんだな。あの当時、ナタリー・ドロンが女房で、三人で寝ていたというもっぱらの噂だった」  突然結城はことばを切り、滝を二、三秒のあいだ底光りする目で見すえた。滝はサングラスのうしろにすべての思いを隠して彼を見守っていた。結城の美しい顔がふいにゆがみ、滝がはっとしたとき、結城はほのかに苦いひびきのある、短くて鋭い笑い声を立てた。 「あんたは、ひどい人だね、滝さん。それは、あなたのさせたことだね」 「とんでもない。私は、山下先生にはじめてきかされて、正直──あれが怖くなりましたよ。あいつは、その一方では山下先生にあれを買え、これを買えと鼻声でねだっていたんですな。娼婦の手口です」 「だが──たぶん、それは、もうおわったことなんだろうな? それをきいたからには、あなたは、やめさせただろうね」  結城の声は低く、押しつけてくるようなひびきがあった。 「どうしてですか。私は、あれの父親じゃありませんよ。私はあれをいまの座につかせるために、何人もの男に売りました。私にどうして、あれの不道徳を云々するいわれがあるんです? おそらく資格もないでしょうがね」 「だろうね」  結城の声はほとんど呟きになっていた。 「それはそうだ。それはあなたらしい。滝俊介とはそういう人間だ。なら、それはまだつづいている?」 「たぶん、でしょう」 「この一、二カ月にも」 「詳しくは──あれは、むやみと、嘘をついて自分の行動を隠す子ですから」  結城はゆっくりと、近視の人のような目の細め方をして、顔をしかめた。そしてしばらくのあいだ一言も云わずに、身じろぎもせずにいた。どんな思いがその心にせめぎあっていたのか。滝は息をつめて待った。結城はなおも黙りこんでいた。  滝は耐えきれなくなった。駄目を押そうと、口を開きかけたとき、結城は典雅な動作で身を起こし、煙草をすてて立ちあがった。  右手で髭をさわりながら、左手をポケットにつっこんで、滝を見おろしていた彼の目は、笑っていたが、それは他の人間の激昂よりももっと強烈な何かを滝につきつけてきた。  それは、意志、だった。 「わるい、奴だな」  彼は笑いを含んだ声で呟いた。 「滝さん、僕はいささかショックだった。そいつは、認めるよ。僕は面白くない、あの真ちゃんあたりと同列にされるなんざ、真平だ。あなたの忠告はもっともだと、ありがたく受けますよ、あなたの|純粋な《ヽヽヽ》好意を信じてね。しかし」  彼は目もとから笑いを消した。火のような目が滝を打った。 「僕が良を知らなかったように、あなたも僕という人間を知らないようだね。僕は、不愉快だ、我慢がならない──こうなれば、意地でもあの──あなたの悪魔ととっくんでそんなふざけた真似をしていられるかどうか見てやる。僕は、あの子を奪るよ、滝さん。もう何を云っても無駄だ」 「結城先生!」 「あの子には、ぎゅっと首根っ子をつかまえて、大人の力を思い知らせてやる者が必要なようだな。僕は良をそんな堕落したばかどもになぶらせてはおかないよ。僕があの子を奪る。僕の、僕だけのものにする」  結城はちらりと手を振った。 「失礼するよ、滝さん。これは出さして貰う」  ひょいとレシートをとり、取りつくしまもなく店を出てゆく結城の、広い逞しい肩とみごとに長い脚を滝は見送った。それからサングラスをむしりとり、灼けつくような目を宙にすえた。 (おれは──結城修二を知らなかったのだろうか。おれの作戦が、まんまと裏目に出たわけか。それとも──それともおれは──こうなることを知っていはしなかったか。これ以上この生殺しに耐えられなくて──ひき裂くのであれ、押しつけるのであれ、このままの状態よりはと……だが……)  滝の目には、異様な暗いかぎろいがあった。不吉な像のように宙に挑む目をすえて、彼は長いこと、身じろぎもせずにそのままの姿勢で凍りついていた。       *  * 「先生?」  驚いたように良の目が瞠られた。「ヤング・ベストテン」の録画が一段落したばかりの楽屋である。  黒のジャンプ・スーツをぬぎすて、胸にスージー・クアトロ調にやたらとかけた何本ものネックレスをはずしているところで、肩から羽織ったチェックのシャツはまだ袖も通していなかった。 「どうしたんですか」 「どうしたもこうしたもないさ」  結城は、大股に楽屋へ入ってきて、一見平静そうに杉田に手をふり、隆にうなずきかけ、相部屋の、マカベプロのトップ・スターの堀純一に笑いかけた。しかし、良に向き直ったとき、その目は細めた奥で何か良をぎくりとさせる光をひそめていた。 「今日はあがりだな。僕と来たまえ」 「え?」  良は眉を寄せた。さっき、番組の司会の江島健から、晩飯はわあわあと皆でいこうや、と誘われたばかりである。 「だって先生、今日は別に先生と何も約束してないでしょう」 「約束もくそもない。早くそのシャツのボタンをはめちまえ。平井君、このばかにコートをとってやってくれ」  隆がびっくりしたような顔をしながら、結城の語調のきっぱりしているのと、彼の生来身にそなわっている、ひとに云うことをきかせる何かに押されるように、云われるとおりにした。  結城はシャツのボタンをいじくっている良に白いダッフル・コートを投げつけた。 「早く着ろ」  良の頬が真赤になった。唇がぎゅっと結ばれ、目が反抗的に光り出した。 「一体何だって云うんです。ぼくは先生にそんなふうに扱われる覚え──」 「あろうとなかろうと知ったことか。いいから来るんだ」  結城はコートを手にもったままの良の腕をつかんだ。憤激に物も云えなくなった良が動くものかと身を固くするのを、あいた手を肩にまわして、猫の子でもつまむようにしてひきずった。  体重で良の倍近く、身長は頭ひとつ分大きい結城である。子供でもあしらうように、怒って身もだえする少年を戸口へむりやりひっぱっていった。 「滝さんに良を借りると伝えといてくれ。わるいね、杉チャン。じゃ、堀くん。佐紀のママによろしくね」 「先生! はなしてよ!」 「おとなしくついて来ればはなしてやる。さもなきゃ、局の廊下を、米俵みたいに担いでいくぜ。どうする」 「なんだってこんな──」 「黙ってろ。わけはあとで説明してやる」  結城の目がまともに良の目を射た。良は息を呑んだ。青くきらめく、獅子の目が良を威圧した。力まかせに握りしめられている腕は痺れるようである。良は急におとなしくなった。結城は大股に良をひきずってゆく。良は息を切らしだした。 「先生、もっとゆっくり──」 「黙ってろと云ったのがわからんのか」  スタジオの前に、結城のベンツがとめはなしになっていた。彼はドアをあけ、文字どおり良を放りこんで、ごぼう抜きに発車させた。一陣の疾風に拉致された思いで良は二人きりになり平静さの仮面をかなぐりすてた結城の峻しい横顔を呆然と見つめた。 「どうして──」 「うるさい。黙ってろと云うんだ」 「冗談じゃない! たとえ先生だってぼくはこんな──」 「静かにしろ。考えているんだ」  結城の逞しい全身から、何か、おしひそめた憤怒に似た白い炎がたっているようである。良は半ば激怒し、半ば怯えはじめて彼をたけだけしくにらみつけたが、何の効果もないと知ると、哀願調をためしてみた。 「ねえ先生、どうしてこんなことするんですか。ぼくはいつだって、先生が来いっていえば──どこへいくんですか。それだけ──」 「僕のうちだ」  結城はぴしりと云ったきり一切の問答を打ちきった。  それきり、青梅街道を少しそれた、武蔵野の彼の家につくまでのあいだ、良のあらゆるこころみを受けつけなかった。  車がガレージにすべりこむと、彼はまた良の腕をつかんだ。良はふり払った。 「自分で歩くよ!」 「よし、はじめからそうやってきけばいいんだ。入れ」  良は目でにらみ殺せるような憤激をこめて彼をにらみつけた。結城はいさいかまわずうしろからつきとばすようにして、すでに良にも馴染になっている、スタジオつきの独り住居に通らせた。  スタジオの方は灯も消え、しんと静まりかえって、いつもの連中も来ていないらしい。  居間でとまろうとした良の首すじをつかんで、結城は奥の寝室に押しこんだ。良はとうとう、ほんとうに怯えはじめていた。 「ぼくをどう──」 「服をぬげ」  結城は怒鳴った。良の頬から血がひいた。 「先生はぼくを何だと──」 「云うことをきかないか!」  いきなり、大きな手が衿に来た。強引に服をひきはがしにかかるのへ、怒った猫のように抵抗するが、所詮力では敵すべくもない。玉葱の皮でもひきはぐように、裸にされて、ベッドの上に放り出された良の上に、荒々しく上衣とネクタイをむしりすてた結城の重いからだがどしんと乗りかかってきた。 「先生!」 「何だ、その目は──僕が怖いのか。ふん、怖いんだな。おい、ジョニー、きみは、僕が好きなんじゃないのか。僕のアミになりたいんだろう。何とか云えよ」  良は喘いだ。いつも、良の激しい反抗心や小生意気な自恃は、さいごには肉体的な暴力の前にはよわよわしくくずれてしまうのだ。良は、暴力に対して自らの身を守るすべを持っていなかった。  結城の膝が良の脚を押さえこんでしめつけ、片手で良の裸の肩を押さえつけて、もう一方の手が握りつぶしそうな勢いで良の顎をつかんでいる。早くも、良の目には涙が滲んできた。 「こんなことするなんて──」 「おい、僕は気が長かないぞ」  結城はしめつけた顎を揺すぶった。 「泣いてみせたってだめだ。答えろ、きみは僕が好きなんだろう──云わないか!」  良は、相手が何を怒っているのか、どうするつもりなのか、わからぬので、いっそう、どうしていいかわからないでいた。憐れな苛められた子供の表情で、顔の上にかぶさっている、美しい、しかしいまはけわしい恐ろしいものをはらんだ男の精悍な顔を見あげる。  まだ、何が何だか、よくわからぬままに、あいての気をやわらげようと、良は力なくうなずいた。 「僕が好きなんだな」  結城は念を押した。いくらか、声が穏やかになっていた。だが、それは単に、真の爆発の前の小休止にすぎなかった。 「僕がきみに惚れてることも、わかってたんだろうな。きくまでもないさ、きみはそんなことは先刻ご承知で、何とか僕を甘ちゃんにして手玉にとってやろうとあらゆる手管を尽していたからな。おい、嘘つきの坊や、きみは、僕の云ったことを、真面目にきいてなかったんだな。僕がきみに参ってる、きみを僕のものにするつもりだ。僕は甘ちゃんじゃないと云ったことを」 「ど……どう──」 「きみは何も云うな。なあ、赤ちゃん──きみは、白井みゆきのペット第二号だけじゃなくて、あの婆さまと、そのペット第一号と、フランス式──だかカリギュラ式だか知らないが、サンドイッチで可愛がられてるんだってね」  結城は目を細くして猫撫で声になったが、きいたとたんに良は息がとまり、消え入りそうに、ベッドの中でちぢこまった。結城は恐しいにやにや笑いをうかべた。 「一丁前なことをするもんじゃないか、ええ? 云っとくがね、僕はきみが誰のおもちゃになったことがあろうと、誰をあやつっていたことがあろうと、問題にするような男じゃないよ。ただし──過去ならね。僕が、この結城修二がきみを手に入れると宣言してから、きみがそんなことをするほど、小僧の分際で僕をばかにするなら、放っておくわけにはいかん」 「先生そんなの嘘だよ、ぼくそんなこと──」 「何も云うなと云ったぞ。僕は少し遊びすぎてたな。きみのような子には、てっとりばやく『我ノ所有物ナリ』と焼印をおしとかなくちゃいけなかったんだ。もう、ゲームはおしまいだ。きみには、ふざけたまねはさせないよ、やれるもんならやってみるがいい。きみは何もわかっちゃいないただの子供だ。世の中には、ばかにできる人間と、そうじゃない男がいるってことを、叩きこんでやる。いいか、もう逃がしゃしないよ」  結城はゆっくり身を起こし、服をぬぎはじめた。良は、罠にかかった小動物のような、魅せられた目で、それを見守っていた。結城は残酷な微笑をみせた。 「きみは少しいたいめにあう必要がある。いわば──僕のものにしたという確認のためにも、僕自身の胸が癒えるための懲罰としてもね。泣いたり哀願してみせてもだめだよ。僕は、その気になれば恐ろしく残酷になれるんだ」 「先生──」  良はすくみあがったまま、辛うじてかすれた声を立てた。 「やめて……もうあの人たちとは会わないから……」 「哀願してみせてもだめだと云ったよ。僕はね、きみのようなコの扱い方はよく知っている。何をしてみせたって、欺されやしないよ。きみは山猫みたいなものだ。懲らしめて、泣かせて、飼い馴らす以外にない──第一、きみだって、さんざんいろんな奴のおもちゃになって──るんだか、おもちゃにしてるんだか知らないが、無垢な小鳥というわけじゃあるまい」  良は恐怖に魅せられたようになって、目をはなすことができずに、ゆっくりした隙のない、大型の肉食獣を思わせるしぐさで結城が近づくのを見守りながらかすかに頭を左右にふりつづけた。  かつて見たこともないほど、ずっしりと筋肉に鎧われた、みごとな成熟しきった雄の肉体が、良を圧倒し、ひどく怯えさせた。男は同じゆっくりしたしぐさで、良の上に身を倒してきた。 「先生!」 「泣き声を出すことはない。きみは、僕が好きなんだろう?」  少年のほっそりした、しなやかな裸身を見下ろして、からかうように彼は眉をつりあげてみせた。 「殺しやしないさ。それともそれもきみのけしからん芝居のうちか。きみはわるい子で──きみの、かけねなしに信じられるときといったら、きみがどんな手管を使う力も、嘘をつく余裕もなくなって、追いつめられた獣みたいになっているときだけだな。僕は、きみの泣き顔が好きだ。さあ、ここにおいで」 「先生──ぼくは──ぼくはだめ……」 「黙って」  彼の口髭が良の肩をこすり、首筋にあがり、唇の上にきた。荒々しい唇がそれにつづいてかみつくように唇をおおった。良は倍近い男の体重を受けとめているのが苦しく、弱々しく喘いだが、それを訴える勇気はなかった。  結城のやりかたは簡潔で有無をいわさぬ力強さに満ちていた。それ以上少年の恐怖に気をとめずに、彼は力まかせに押し開いた。  良のからだを激しい恐怖がすくませた。結城は侵入の体勢をとろうとしたが、ふと眉をひそめて、良のきつく目をつぶり、予想される激痛に耐えようと唇を破れるほどかみしめた蒼白な顔を見下ろした。彼の顔がわずかにやわらいだ。 「そんなに怖いか」  彼は囁いた。 「心配しなくていい。僕を信じてるね──僕はいまの良が好きだ。可愛いよ──きみは、何も知らない、自分のことも、大人のこともね。きみが僕のものになれば、もう誰にも良を切り売りの肉みたいには扱わせない。僕が守り、甘やかしはしないが大事にして、きみを立派な大人に育ててやる。きみには、僕が必要だ。怖がらなくていい──きみに、夢中だよ」  良はわずかに目を開き、ぼんやりしたまなざしで結城を見あげた。良はひどく稚い、可憐な表情になっていることを意識していなかった。良が見たのは、やさしい目をし、かつてないほど真剣なひきしまった表情をした結城の顔だった。美しいと良は思った。  結城の口もとは厳粛になっていた。彼は、ゆっくりと、不必要に苦痛を与えまいと細心の注意を払いながら、押しあてたからだに圧力を加えた。また良がびくりとすくみあがった。 「怖がらないで」  結城は囁き、さらに力を加えていった。良の見開いた目からかすみのかかったような表情が消え、かわって、射ち殺されると知った獣のような憐れな表情がうかんだ。良は唇をかみしめて、なおわずかなあいだ必死に堪えようとしていたが、遂にかすかな悲鳴をあげた。  喘ぎながら、ずり上ろうとする肩を、男はしっかりと押さえつけた。ゆっくりと、激しい力が圧迫を強める。良は夢中になって、なかば無意識に頭を左右にふりつづけた。男の真剣な、激しい目を見ると、口に出して憐憫を乞う勇気がなかったのだが、心臓は咽喉からとび出すばかりに震えあがっておののいていた。  圧倒的な力が極限まで少年を押し開き、貫こうとしていた。しかし、そこまでで結城は動きをとめた。彼はわずかに戸惑っているようだった。 「良──」  彼は囁いた。 「きみは──山下に抱かれていたんじゃないのか? きみのからだは──二年近くも、誰かのペットになっていたとは思えん──僕が、思いちがいをしてたのか? きみは、狭すぎる。何の訓練も受けたことがないみたいだ。だとすると──はじめに僕じゃ、酷すぎる。云ってごらん、我慢できないか? やめてほしいか? いいんだよ、怒りはしないから──僕のものになるのは、無理かな──きみが、どうしてもいやなら、僕は、もちろん……」 「先生──」  良はかすれた声で呟いた。良の目の中に、ふしぎな表情がうかんでいた。もし滝がそこにいたら、その、奇妙に無防備な、もの云わぬ獣に似かよった表情が、かつて、二人の間柄が滝の殺意によって断ち切られる前の長くはない至福の期間に、はじめて得ることのできた、まかせきったいたいたしいほどの信頼、自分を打つ飼主に黙って身を寄せていく獣のような、何をされてもいいようにしてくれるという、身を投げ出した表情であることに気づくことができただろう。  結城がはっと胸をつかれたように、その少年の顔を見つめた。 「ぼく──ぼくは……我慢するから……」  少年は不たしかな声で呟いた。 「先生のいいように──」  青みがかったまぶたが閉じた。ほっそりした手が、内心の怯えに耐えるように男の分厚い胴にしがみついていた。結城は息を呑んで凝視した。  突然、彼はすくいあげるように良を抱きとって、砕けるほど抱きしめた。しばらく彼はそうしてきつく抱きすくめたまま、身じろぎもせず、ひとことも云わなかった。  やがて、彼は、静寂を破ることを恐れるように、良の頬に頬をすりつけ、その耳朶に唇を寄せてやさしく囁いた。 「我慢するんだよ──どうすればいいのか、教えてやるから……いいんだね?」  良はかすかにうなずいた。結城は激しくその唇を吸った。 「気を楽にして──息をつめちゃだめだ。ゆっくり、浅く、呼吸してごらん──いいか……」  良はからだの震えを押さえつけようと必死に彼の胴につかまっていた。再び、激しい圧迫感が加わった。力づけるように逞しい手が良を抱きしめた。 「いいんだね? 辛いぞ──我慢するんだ。僕を信じて──大好きだよ……良」  結城の声はやさしかったが、もう、それはほとんど良の耳に入っていなかった。良の咽喉から、おさえようのない悲鳴が洩れた。結城はこんどは容赦しなかった。 「あ──ああ!」  良は悲鳴をあげて、必死になって男の厚い胸を押しかえそうとした。ほとんど無意識の、本能的な、傷つけられまいとする獣の動きだったのだ。 「や──やめて! やめ……あああ!」  からだが真二つにひき裂かれたような激痛が少年をつきさした。良の目から苦しみの涙があふれ出し、もはや何も知覚できぬまま、その恐ろしい苦痛から逃れようと、死にものぐるいで良はのたうった。少年をつきあげてくるそのすさまじい苦痛は、予想もできなかったきびしいものだった。きつく抱きしめ、押さえつけてくる力強い手の下で、殺される獣と化して少年は泣き叫び、猛烈に暴れた。結城は逞しい全身のありたけの力で良ののたうちまわるからだを押さえこもうとし、激しく叱責をこめて囁いた。 「だめだ、暴れるな! 我慢するんだよ! すぐだ、すぐ楽になるから──頑張るんだ。暴れると、ひどい怪我をさせちまうかもしれない。良! だめだ、かえって苦しいぞ。からだの力を抜いて、受け入れようとするんだ」  おそらく、彼のことばはほとんど、苦痛に啜り泣いている少年の耳には入らなかっただろう。しかし、じきに、さいなまれている少年のきゃしゃなからだの、力の方が尽きてきて、良は暴れなくなり、逞しいからだの下に組み敷かれたまま唇まで青ざめて呻きながらぐったりとなってしまった。子供っぽい苦痛の涙が血の気のない顔を濡らしている。せぐりあげるように苦痛を訴えているほっそりした顔を結城はいとしさに胸をえぐられるように見つめ、その頬に頬をすりつけた。やさしくその名を囁き、髪をまさぐる。  良は激しく、喘ぐような呼吸を洩らしながら、眉をひきつらせ、細いからだの張り裂けんばかりな激痛を堪えようと健気な努力をしていた。結城の唇が、そっと頬を汚している涙を吸いとった。彼が動きを止めると、辛うじて耐えられる程度にまで、苦痛はやわらいだが、良のからだの全細胞は、じきに恐ろしい責苦が再開される予想に怯えきってすくみあがっていた。  良はほとんど無意識にぼんやりと、苦しみにかすんだ目を開き、上にのしかかっている男の顔を見あげた。いたいたしい、もはや許しを乞うたり、憐れみを乞おうとする気力も尽きた、奇妙なくらい稚い目だった。結城はいとしさにどうにもならぬように、溶けるようなやさしい目でそんな少年を見つめた。 「──僕のものだ……」  彼は囁いた。 「決して誰にも渡さない──もう逃さない……僕のものだよ。きみに夢中だ……どうしていいのか、わからない──死ぬほど、可愛いよ。許してくれ──きみを苦しめて……もう、二度と僕からはなれちゃいけない。ひとつだよ──僕と良は、ひとつだ──僕がいるかぎり、きみをはなさない、守ってやる、僕のものだよ──僕の小さな花嫁──僕が好きか?」  良は稚いしぐさでかすかに首をうなずかせた。 「ほんとにか──ほんとに好きか」 「え……」 「Je t'aime──」  結城の唇が良の唇にかさなってきた。再びゆるやかに、しだいに激しい昂ぶりが彼を押し流すのに呼応して、良の眉がひきつり、からだをのけぞらせ、良は、その人によって激しい苦痛を与えられ、さいなまれているのに、その人にすがるほかに逃れる道はなく、この手をはなしたらおそろしい激流に呑みこまれてしまうのだというように、悲鳴を結城の唇でふさがれたまま、必死になって彼にしがみつく手にありったけの力をこめていた。しだいに荒々しい津波が男のからだに巻き起こり、前にも増してたけだけしくむさぼりつくすその動きのたびに、組み敷かれたままもうあらがう力も失った少年は弱々しく呻きつづけたが、しだいに目の前がぼうっと暗くなり、激しくからだを真二つにひき裂かれるような疼痛が脳までつきさしてくるたびに、かすかな泣き声をあげてのたうちながら、奇妙な身をゆだねきった安息もまた、良をとらえはじめているのだった。  圧倒的な力にとらえられ、重いからだに組み敷かれ、逃れるすべもなく酷い苦痛を加えられながら、しかし、それでさえ──いや、それこそが、自分をつつんで守っている神の意志に似た巨大な愛であり、良はただ身をまかせ信じきって、苦痛に喘ぎ、愛にぬくもり、甘やかされ、流れに運ばれていけばいいのだ。それはこの上もなく安楽な、けだるい快ささえも良に教えた。  それが良の望んでいたことだった。何の意志もなく身をまかせていること。──それ以外の愛を良は知らず、必要としてもいなかった。良の呻き声には、かすかな、幼児の甘えにも似たひびきが混ざりこんでいた。  太陽と月は相寄り、溶けあっていた。結城が荒々しい呼吸をたかめながら良を抱きしめた。良はかたく目を閉じ、もう、自分が何故苦痛に呻いているのか、誰に抱きしめられているのかもどうでもよくなって、そのままひきこまれるように暗黒の安息に身をまかせていった。 [#改ページ]     22 「良──」  やわらかな、スタンドの光が、寝室のなかをおぼろげな明るさに照らし出していた。唇と、口髭の感触がかぶさってくるのを良は感じ、それから唇を割って、芳醇なブランデーが注ぎこまれたときに、ようやく、ぼんやりと目を開いた。からだが、ばらばらにひき裂かれてしまったような気がし、頭の芯が麻痺したようになっていた。 「良、苦しいのか」  やさしい声が云った。ふわりとつつみこむような、父親めいた声は、良の心をときほぐしていくようだった。なんて長い夢を見ていたのだろう、と良は思い、滝さん、ぼくどうしたの、と口に出そうとしたとたんに顔の上にのぞきこんでいる相手が滝ではないことに気づいてぎくりとした。 (マンション──長崎……ああ……) 「先生……」 「大丈夫か。もっと、ブランデーをやろうか?」  結城はゆったりしたガウンをひっかけていた。大きな手が、額にあてられ、髪をそっと撫でた。こわれものを扱うような手つきだった。 「大丈夫──いま何時……」 「二時半。夜中だよ」 「二時半?」  良は驚いてとび起きようとした。頭のてっぺんまで激しいいたみが貫いて、悲鳴をあげて倒れかかる背中を結城がしっかり抱きとめた。 「帰らなくちゃ──滝さんに怒られる……」 「心配しなくていい。帰れやしないよ。だいぶ出血している」  良は目を見開いて結城を見つめた。結城はほろ苦い笑いをうかべた。 「きみを、ひどい目にあわせちまったな。女の子とは、わけがちがうんだってことを、忘れていた。苦しいんじゃないか? いいから寝てなさい。何か持ってきてやろうか。水は?」 「うん」  結城はベッド・サイドのテーブルからコップをとって、そっと良を抱き起こし、水を飲ませた。良は咽喉を鳴らして飲んだ。 「あとになってから、きみはそう云えば前にもステージで卒倒してるようなこわれものだったんだと気がついておたおたする始末さ。殺しちまったかと思ったよ。具合はどうだ。ひどく、苦しい?」 「ちょっと──でも大丈夫……」 「大丈夫な顔じゃないな。明日の仕事は?」 「え? ああ──たしか、『ケンジントンパーク』でオールスターズと共演するんだ……それだけで、あさってからは、レコーディング……」 「そうか。じゃ夜だな。どうだ──それまでに、起きられそうかな」  良は不たしかな顔をして黙っていた。下半身が、痺れてしまったようで、頭がふらふらしている。 「困ったね──きみは、僕を身も世もない思いにさせるよ……まあ、いい。もしあれなら、ちゃんとマネに云って休ましてやろう。きみが怒られるようにはしやしないから心配しなくていい」  良は黙って、守られ、いたわられている満足感にひたりながら、結城の髪を撫でてくれる手の下でじっとしていた。 「僕を嫌いになったりしないね?」  結城はやさしく云った。 「もう、こんな目にはあわせないからね」  云ってから、少し考え、苦笑いして、両手に良の顔を囲んでのぞきこんだ。 「──いや……もうだめか? ときどき──仕事にさしつかえない程度で……もういやか?」  やさしい指が良の髪をかきあげ、眉をなぞり、まぶたを撫で、唇をなぞった。 「僕は──正直いって、きみが欲しいよ。それに僕は残忍性はないつもりだが、いささか我儘な人間だしね……なんとかして、きみに馴れて貰うほかないな。僕はさっききみのからだのどこかをだいぶ傷つけてしまったらしい。罰は甘んじて受けるよ。僕をひっぱたきたいかね?」  良は結城のしょげた顔を見て小さく笑い出したが、からだにひびいたのであわててやめた。ひどく安らかな、疲れきったような心持になっていた。 「いいえ」 「きみはいい子だな。じゃ、何かねだりなさい。きみに酷いことをした罰だから、何でもきいてやるよ。おねだりは、特技なんだろう?」  良は結城がまた何かたくらんでいるのではないかと警戒するような目つきで見あげたが、結城が目もとで笑うと安心して甘えた声で先生のとお揃いの指輪が欲しいと云った。 「僕のと?」 「うん。あの銀で、ルビーがはまってて、かわった模様のある……いつかしてたでしょう」 「あ、あれか。インドで買ってきた奴だな」  結城は立っていったかと思うと、それを手にしてひきかえしてきた。 「あげるよ。手を出してごらん」  ほっそりとした手をとって、はめてやろうとして、彼はにやにや笑った。それは良にはまるで太すぎた。 「親指でやっとつるっと落っこちないぐらいじゃないか。どこからどこまで可愛らしくできてるんだな──じゃこうしよう。僕の行きつけの店でこれをコピーして貰って、きみのをこさえてやろう。エンゲージ・リングだな──僕のこれは風変りだから有名なんだ。良は僕のものだぞって、みんなに宣伝してやろう。それだけかね? そのうち、揃いのコートでもこさえることにしよう。もっとも、良には、ネクタイなんかは似合わないね──きっと、ミンクのコートなんか、似合うぞ。ほんとうは、女よりは、男の方が、ずっと派手な恰好をすべきなんだぜ。孔雀だっておしどりだってライオンだってみんな雄の方が着飾っている。きみは、きみ個人としては、滝さんにどのぐらい給料──か小遣いか知らんが、貰うことになってるんだ?」  良は首をかしげた。知らないと答えるとこんどは結城が眉をつりあげた。 「おい、しっかりしろよ、赤ちゃん──彼は、滝俊介だぜ。きみは何も知らないんだろうね。印税とか、買い取り制とか──きみは、自分の金も彼に管理をまかせてるのか」 「まかせてるって──だってぼくは未成年だし、生活費はぜんぶ滝さんでしょう。衣装はぼくが頼むと作ってくれるし──ぼくあんまり自分では金つかわないし」 「その分、憐れな恋人に甘ったれればいいしね」  結城はからかうような云い方をしたが、眉間にはかすかに皺がきざみこまれていた。彼が滝に一抹の疑惑を抱きはじめたことを知るのに、さほどの烱眼《けいがん》も必要としなかった。 「こんど滝さんに頼んで、ミンクのコートを作って貰うんだね。揃いの指輪をはめて、ジーンズの上にミンクにくるまったきみをあっちこっち、連れ歩いて見せびらかしたいよ」  結城はひとつ肩をすくめて、話をそらしてしまった。 「『銀馬車』で三輪臣吾のリサイタルをきいたり、『テイク・ファイブ』で北野清治のクラリネットをきいたりね。きみと行きたいところが山ほどある。きみなんて、何にも知らないんだろう──スタジオや仕事場と家を往復して、マネージャーの云うとおりにひっぱりまわされて、つまらんお偉方と、ときどき名前と気位と値段ばかり高くて味もそっけないようなところで|お食事《ヽヽヽ》を付合うだけでさ。きみは世間を見なくちゃいけない。僕は、きみやまさみみたいな≪アイドル≫って奴を知ってるよ。およそ可哀そうなくらい、人間的には片輪なんだ。どうだい、きみはいまどんな本が話題になってるか知ってるかい。ザ・バンドの二年ぶりのアルバムがその方面にセンセーションになってるのを知っているかね。最近注目されてる戯曲作家は誰か知ってるか。クロスオーヴァー・ミュージックってきいたことがあるかね。そもそも、きみは、何人友達があるね? むろん、芸能界のほかでだよ。芸能界の奴らなんて、会って話そうが一緒に寝ようが、友達でも何でもない、うしろをむけば敵どうしさ。ばかな話だ、一時期のハリウッドだってこんなに気狂いじみちゃいなかった。マス・メディアか!  きみなんか、生きながらホルマリン漬にされてるみたいなものさ。サイン会、ファンと交歓のつどい、キャーキャーワーワー、ヒットチャート総合何位でござい、何百万枚売って、毎晩ちがうテレビ局で同じ顔ぶれで同じ歌を歌って──きれいな顔のついた可哀そうなテープレコーダー、学校にも行けないで、ひとなみの礼儀や常識も教えて貰えないで、真夜中でもお早ようございまーす、むかつく奴にも先生よろしくお願いします、てめえのサインだけ上手になって、世の中で何が起こってるかも見えず、きこえず、頭のいいスタッフの組んでくれる予定どおりにパクパク歌っちゃ金を吐き出してる鵜飼いの鵜──あげくに、ほんとうなら高校生の乱暴ざかり、育ちざかりにこんなきゃしゃな腕をして、真白な肌をして、化粧の仕方を覚えて──可哀そうな人形だよ、きみは。きみは生きなきゃいけない、まず僕が生き方から教えてやらなきゃなるまい。見かた、ききかた、味わいかた、知る方法、知ろうと思う気持もだ──気がついてたよ、ジョニー、きみの目は、何ひとつ見ていない目だ。きみはちょっとうっとりしたように自分の中をのぞきこんでるだけだよ。  きみは決していい子じゃないが、根っからのわるい子なんかじゃない。ただきみは何も知らなすぎるだけだ。まわりに、教えてやる奴が、ほんとうにきみのことを親身に考えてやる人間がいなさすぎるだけだ。きのうきみを抱いて、僕は、きみがほんとうは素直な、甘えん坊な、もろい、ただの子供なんだってことに気がついた。愛に飢えた子供だよ、良。きみは、母親を欲しがってあばれてるだけだ。そんなきみが、たまらないくらい、可愛い。僕にできることならどんなことでもしてやって、きみを幸福にしてやりたい。ひとりでしゃんとやっていける大人の男になるまで、見守ってやりたい。  僕は、これまで、たくさんの相手と恋をした。千田麗子も含めて、女もいたし男もいた。少女も、少年もいたよ、良。だが、その全部に共通して云えることは、結局かれらはひとりで生きていける人間だったってことだ。自分の頭と自分の魂と、自分の信条と生き方と愛し方を持っていた、また僕はそういう相手でなくては好きになれなかった。おそらく、僕は臆病者で、他の人間をその魂ごとひき受けるなんていうことは、あんまり恐ろしくてできなかったのかもしれないね。そういう点では、僕はきみのマネージャーと意気投合するよ。あの人も、実にしたたかな男だが生を他の人間とわけあう責任をひき受けかねると思っているようだ。僕もそうだった。僕はいっぺんも結婚しようと思ったことがないし、自分の子供という考えは思っただけでぞっとする。こんな世の中に、大切な子供を一人で送り出してやるなんてできないよ──それにまた僕はずるかったのかもしれない。僕は、次の素晴しい芸術品に心をひかれたときに、前の相手にまとわりつかれてぶざまな泥試合を演じたくなかった。  僕がどんなアミとも必ず約束したことがある。それは、このあいだレイのことできみに云ったのと同じことだ。新しい恋人ができたら見せると約束すること──恋がおわっても友達どうしでいられるようなそんな関係をつくることだ。そうやって僕はずいぶん、いろんなひととやさしい気のおけない友人になった。そうなれないようなひととは恋人にもならなかった。人間は、ひとりとひとり、大人と大人──そうでなくてはいけないと思っていたわけだ。  だから僕は──こんなことを云ったってかまわんだろう。だから、最初にきみと会ったとき、何の興味も持たなかったし、みゆきに紹介して少しきみの≪本性≫を見たと思ったときには、実にきみを、はなをひっかける値打もない、例のピーピーキャーキャーのひよっ子どもの一人だと思って軽蔑したよ。ペチャペチャした声で物を云い、やたらと可愛こちゃんぶってしなをつくり、実におぞましいほど無知蒙昧で、あわれにも貧弱な感受性のミイラを百倍ぐらいに水増ししてふりまわし、男でありながら媚を売り、自尊心のかけらもなく、自分のあわれなちっぽけな王国を全世界と思いこんで大変なもののつもりでいる──ね、芸能界という、不具者製造所が大量プレスしてばらまいている、現代の最も甚しき害毒の一典型さ。  そいつを売り出す方はいいさ、商売だからな。だがそうされる方は──やがてとうも立つだろう、移り気なファンにも飽きられるだろう。そうしたら一体そいつはどうなるんだ。僕はいくらでも、そういう人間の残骸を見てきた。ホスト・クラブだの、金と名があって若いロボットを欲しがるおばさま、おじさま族のベッドでね。その一方で僕は、自分の能力と楽器──それを持ってりゃいい方なんだ──しか持っていないのに、実に僕が自分を恥じるくらい澄んだ燃える目をして集まってくる痩せた若者たちも見た。多くは永遠に無名のままで──だが永遠に夢を抱いて。  僕は昔、自分がやたらと金と権力のある側の人間に生まれたことがどうしようもなくいやで、それこそあらゆることをして、自分自身から逃げようとした。こんなことは、きみに話したってしかたのないことだが──僕も人並には辛い思いもしたよ、そしてそのお蔭で片輪にならずに済んだと思っている。その結果臆病者になってしまったかもしれないがね。だから僕はいまではたしかに自分自身の責任だけはしゃんとひき受けて生きている。その上に責任をとらなくて済む程度に世の中にかかわっている。だが結局それではいけないんだな。人間は、いつかは自分自身の責任だけでは済まなくなる。誰かと──おれがいなくてはこいつはだめになってしまうのだという誰かとめぐりあってしまう。それはおそらく、かつてはどんな偉そうなことを云う人間でもギャーギャー泣きわめく赤ん坊で、両親の無償の愛を受けてようやく一人立ちするまでになったという負債を持っているということなんだろう。そして、たいていの人間は、その宿命的な誰かを、わが子というかたちでしょわされることで、誰かの子供であった自分を清算するんだろうね。  だが僕は思いあがって、誰の親でもあるまいとしてきた。負債を逃げようとしていたんだな。ところがいま僕の前にはきみがいる。可哀そうな、愛に飢えた、そのことに自分で気がつかないくらい傷つけられた子供──例のつまらん女性週刊誌の記事がたまにはほんとうのことを云うとすれば、きみは一切の家庭的な幸福というものと縁なく育ってきたんだというね。二度目の父に殴られ、ヒステリーで色情狂の母親はたえずわめきたて──そのお母さんももう亡くなられたんだったな。だがそんな妙にうがったようなことはどうでもいい。問題は、きみは、僕がいなければ、いずれは人気を失ったときにあの佐伯の真ちゃんみたいになりはててしまうか、それともその何も知らん思いあがったヴァンプの真似事のために、いつか誰かに殺されちまうかしかないということなんだ。冗談で云ってるんじゃないよ。きみだって思い当ることがあるだろう。  きみは不幸なことに、いささか無事におわりをまっとうするには、きれいすぎるし、そいつも健康な愛すべき美しさなんかじゃない。まわりにも、自分自身にも、不幸を招く美しさだ。きみは何もかもアンバランスだ、歪んでいる。その致命的な媚だの、そいつの効果をまた自分ではほんとうには知ってもいないこと、恐ろしく色っぽい目つきだの、手管だのを知ってるくせにからだの方は完全に子供でこんなていたらくになっちまうこと、強情なくせにひどく脆くて、甘やかされたくてしかたがないくせに干渉されるのが我慢がならなくて、きみのそんなところは、ある種の人間にとっては、まるでニトログリセリンみたいに危険なんだ。きみ自身にとっても危険なんだよ。  僕はきみを守ってやりたい。みじめなベルボーイにもさせたくないし、きみを破滅させたくもない。こわれやすいガラス細工みたいなきみを手の中につつみこんで、そうっと守っていてやりたい。僕がひとをそんなふうに思ったのは──これまでだって、何かの拍子にアミをそんないとしさを感じて見つめたことはあるけれども、こんなに、胸が苦しいほど、僕はきみを手放してはいけないのだなどと思ったのははじめてだ。  僕は出まかせを云う人間じゃない。一時の感情や、ちょっとした良心の苛責などで、守れないような誓いをまき散らしはしない。僕はきみを愛しているよ、良、僕を信じて欲しい。僕の云うことをきいて、僕がいつもきみのためにいちばんいいようにしてあげるということを信じてくれ。僕はいつもきみを守る。きみの最も必要なものを与えよう。こんなことは、僕はいまこのとき以外、もう二度とは決して云わないよ。きみは忘れてもいい──きみは好きなだけ、きみを僕にぶつけて来るがいい。甘えたり、焦れたり、拗ねたり、駄々をこねたりね。僕は必ずきみを受けとめてやる。僕の云ってることがわかるか。わかるか、良──」  結城は低く吐息を洩らした。良は魅せられたような目でじっと、低く熱っぽく語りつづける結城を見守り、結城の云っていることよりはむしろその語調に身をゆだね、母親の囁きにあやされている幼児のように、からだのいたみも忘れてうっとりときき惚れていた。結城の手はゆるやかに、その枕の上に乱れている髪を撫でつづけている。 「きみのその青白い顔に明るい陽ざしを取り戻してやりたい。少しは、まるで僕の半分しかないみたいなこの細いからだに肉をつけて、小麦色に焼いて、わんぱくな十八の男の子らしくすることだよ。貧血の、虚弱体質なんて話にならん。きみには、あらゆることを教えてやりたいよ。ギターはひけるかね。安っぽいハイ・コードのフォーク・ギターじゃないぜ? 泳げるか? ヨットはどうだ?──ああ、今年の夏には、葉山に連れてってやろう。僕のヨット──レディ・デイ号って云うんだが、それに乗って、操り方を教えてやろう。ほんとうは剣道か空手でもやらせて、からだを鍛えさせたいところだな──僕は、剣道三段だぜ。それとも、一緒に、アルトサックスの吹き方でも習おうか。田辺守夫がいつでも教えてやると云ってる──ドラムはどうだ。あいつは、筋肉が要るよ。きみはリズム感はいいんだからな。──長い休みがとれたら、海外《そと》へ連れてってやろう。やはりはじめはヨーロッパかな……アメリカへ、ナッシュビル・サウンドと、ニューヨーク・パンクを勉強しに行くか。どっちみち、僕はいま、あっちのレーベルと組もうとしてるところなんで、たびたび行かなきゃならんからな。僕は、とにかくまず、きみに、あらゆることに興味を持たせたいんだよ。すべてはそれからだ。きみはまだ生まれてない赤ん坊みたいなものさ。けしからん、僕の大事な赤ん坊だ。──きみは、笑ってるね。きれいな笑い顔だ。うっとりしてて、すきとおっているみたいだ──いいんだよ。僕の話をききながら眠りなさい。休めば、からだが楽になるからね。ちゃんと僕が、無理に仕事に出なくても済むようにしてあげるから……今年の夏は楽しいぞ。僕のジャガーで、九十九里の海岸までドライブしよう。何かうまい物と、ワインでも一瓶持ってね──僕はしかし、夏までに、いっぺんニューロックの連中が日本版モントルー・ポップフェスをやるって騒いでるから、付合って比叡山まで行って来なきゃならんな。きみもいっしょに来られれば──なあ、良、滝さんはきみに厳しすぎるな。きみはほとんど休暇らしい休暇も貰ってないようだ。このへんで少しまとまった休養をとったらどうだ。よければ春の大和路でも連れてってやったって──きみは、どうしてそんなに滝さんにはおとなしく云うなりになってるんだろうな。まああの我儘ぶりをおとなしいなんぞと云えるとしての話だが、それにしたって彼の糸の先で踊らされてるにはちがいない。きみはそもそも彼をどういう──良、眠ったのか」  ほとんど思いつくままにあとからあとからやさしい低い声でしゃべりつづけていた彼は、目を閉じて、小さな寝息を立てている良の青白い、弱々しい顔を見おろした。  それはひどく儚なげに、いまにも消えてしまいそうにいたいたしくすら見えた。長い睫毛が血のない頬に影を落している。かるく唇を開き、ほのかに眉根が寄せられて、良は苦しそうな表情をしていた。  結城はそっとその眠りをさまさぬように気をつけながらその頬に手をふれ、小さく開いた唇に唇を押しあてた。  惑溺の、最初の甘いいたみが彼の端正な顔をよぎって過ぎた。疼くようないつくしみに満ちた表情で、やさしく目でつつみこむようにしながら、良の眠りを守っているかのように、彼は長いことそうして動かずにいた。  滝は、マンションの窓から結城のベンツの角をまわってくるのを見ていた。結城が良の肩を抱いて支えるようにしながら、エレベーターから出たとき、滝はドアを背にして、廊下に腕組みして立っていた。  午後の日はかげりはじめていた。コンクリートと合金の廊下は寒々しく薄暗い。滝の顔がきびしくひきしまっているのを見て、良の手が怯えたように、ぎゅっと結城の腕をつかんだ。結城は安心させるようにその肩にまわした手に力を入れた。 「ご迷惑をおかけして申しわけありません」  低い声で滝が云った。彼はゆっくりと腕をほどき、一歩踏み出した。 「それは僕のことだよ」  結城が鋭く目を細めて云った。どちらも、口辺をかすかな笑いにひきつらせ、目は、笑っていない。 「お電話をいただきましたので先方にはそのように手配しておきました──おあがりになりますか」 「いや」  結城は肩をすくめた。 「遠慮しとこう。ちょっと僕は寄るところがあるから」 「白崎さんですな。いかがですか、進み具合は」 「おかげさまで、なんとか物になると思うよ」  結城は怒ったように、青い顔で彼のうしろにまつわりつくようにしている良の腕をつかんで、滝の方に押しやった。 「僕に免じて許してやってくれ。僕の責任だからな。いずれ、借りはかえしますよ」 「とんでもない、何をおっしゃいますか」  滝は結城から目をうつして良を見た。良の、どこか不安そうな目が、うかがうように彼を見あげる。滝が手をのばしてその腕をつかもうとするとびくりとした。滝はかっと頭に血がのぼるのをこらえた。 「良、ここへ来い」 「じゃ、僕は失礼する。ゆっくり休ませてやってくれ。わるかったね。滝さん。いずれあらためて──」 「どうぞもうお気になさらんで下さい。これがいくじがないんですから」  滝は結城がやさしく良にうなずきかけて、エレベーターの方へゆきかけるのを見送って、良を室内に連れて入ろうとした。良の目が、何かすがりつくように結城を追っている。  背後でドアがしまった途端に、滝はぴしりと良の頬を打った。良が悲鳴をあげてよろめき、壁にぶつかり、そのまま力なくくずれこんでしまった。  真青な顔の中で、怯えた目だけが光って滝をにらむように見あげた。 「打たないで……」  良は弱々しく云った。滝は激昂した。 「大体きさまはだらしがないんだ。今夜、やれるな。だめだなんぞと云わせない。おれはお前を甘やかさんぞ。ちょっと疲れているからって大事な仕事をキャンセルしてつとまると思うのか」 「滝さん……」  良は喘いだ。ひどく、弱々しい顔をしている、と滝は疼くような苦しみを感じながら思った。結城から、ちょっと僕のせいでひどい目にあわせてしまった、と謎めいた電話をきくまでもなく、良が結城に連れ去られたときいたときから、何があったのかはわかっていた。そして良は一晩帰って来なかった。 (良──)  荒々しい、憤怒とも、悲哀とも、嫉妬ともつかぬ激情が、滝を残酷にしていた。滝は、力ない青ざめた顔で、くずおれたまま目をつぶってじっとしている、弱りはてた小鳥のような少年にとびかかり、衿をつかみ、もう一度撲ってやろうと手をふりあげた。  他の男の胸で一夜を明かした良を、めちゃめちゃにいためつけ、踏みにじってやりたい衝動が彼の中で荒れ狂っていた。  だが、そのときうしろでドアがあき、滝の手首はぐいと強い力で握りとめられた。 「こんなことじゃないかと思ってね」  静かな声が云った。滝は良をはなして立ちあがり、ゆっくりと結城の手をふりはなした。 「先生……」  良が泣き声をあげる。怯えたようすの底に、全身で結城に甘えかかる表情がある。苛めっ子にいためつけられて、母親の胸に逃げこもうとする幼児のようだ。ふたたび、滝の中で、たまらなく鋭いいたみが疼いた。 「良は弱っているんだよ。あなただって、プロのマネージャーだろう。人買いの奴隷の監督じゃあるまい。良を折檻して、何になる? 怯えさして、よけい衰弱させるだけだよ。怒るなら、この僕を撲ればどうだ」 「先生、私は、良のマネージャーですよ」  滝は鉄のような目で結城の、穏やかな底に並々ならぬ激怒をはらんだ目を受けとめた。 「それだけじゃない、いわばこの小僧の保護者として、責任があります。私はただ、プロ歌手の心構えというものを、しつけてやろうとしているだけです」 「これがあなたのしつけかね、撲りとばして、怯えあがらせるのが」 「申しあげておきますが、良に関して全責任を持っているのは私です。私には私の方針というものがありましてね、たとえ先生から何とお口添えをいただこうと、それは曲げられません。この小僧は、ちゃんと、仕事に行けますよ。この子は横着なんです。何も先生に含むところはありませんよ。先生に可愛がっていただくのは、これの勝手ですからな。ただそれを仕事に影響させても、先生が何とかして下さるから平気だなんぞという、くせをつけられては困りますのでね。厄介な先例を作らせるまいと思っているだけの話です」  滝はじろりと結城を見つめた。 「この子は、私の監督している歌手ですよ。どうか、ご心配は無用に願います。私も何もタコ部屋の見張り役じゃあるまいし、この子のからだにさわるような折檻などしませんよ。ちゃんと、ほどは心得ております。どうぞ、ご心配なく」 「そうかね、心得ているかな。僕にはどうもそうは思えんね、その青い顔を見てみたまえ」 「先生は、お忙しい方ですから、つまらんことであまりおひきとめしてはどうかと思いますな」 「滝さん、ちょうどいいおりだから、ひとつこれだけは云わして貰うよ」  結城は白刃のような光を目の奥にきらめかせて、少しも激昂しないが、その底にきびしくはりつめた強烈な意志を押しつけてくる口調で云った。 「僕はあなたのような、プロに徹している人は嫌いじゃないがね、ところどころ、どうも賛成しかねるところもある。あなたは、あなたの預かっているその子が、他に身寄りもない、あまり気性も強くはないし、からだも健康とはいえない子なんだってことに、気がついていないんじゃないかな。僕ははっきり云って良を愛している、良がどういう子かもわかっている、従って良に必要なものや、どういうぐあいに扱うべきかもわかっていると思う。みすみす良が傷つけられるのを見すごすつもりはないね」 「この子は、強情な子でしてね、たがをゆるめるとどうにもならないんです。私にもこれの扱い方はわかっていますよ。いえ、待って下さい。私はこれを見つけて、デビューさして、これまで育ててきた人間だということを先生は忘れておられるようだ。私のやりかたには、|誰にも《ヽヽヽ》、口出しはさせませんよ」 「僕は良を、単なる商品としてじゃなく、一人の子供として大切にしてやりたいのだ」 「先生、良を可愛がって下さるのは、ありがたいと思います」  滝は意識的に、目を冷たく光らせ、口をゆがめ、やくざっぽい凄みをきかせた表情を作った。それは滝の自虐かもしれなかった。 「しかしそれはそれです。私の仕事に関しては、私のやりたいようにやらせて下さる方が、お為だと思いますよ」  結城の美しい顔に、瞬間、かぎりない峻烈な侮蔑がかすめた、と滝は思った。  滝は思った。そうだ、おれは悪党だ。安っぽいやくざ興行師で、あくどい手口で評判のダニみたいな悪徳マネージャーだ。おれは大会社の社長の御曹子じゃない。金と名声と才能をあびるほどもって優雅に生きることを楽しんでいる貴公子なんかじゃない。わが才覚ひとつで芸能界という修羅場をくぐりぬけてきた二流の人間、立川組の組長のところに新年の挨拶に行き、関口洪作に良を売りつけ、この玉にくいついてはなれまいとしている卑劣な女衒なんだ。 「それに──私はたしかに申し上げましたね。これは、どんな子で、どんなことがあるか──にもかかわらずこれをひき立ててやろうとおっしゃるのは、先生のご自由です。しかし──山下先生がいまどんなことになっているか、お忘れにならんように。私は、先生のためを思ってこう申しあげるのですよ」 「ありがとう、滝さん。忘れはしないよ。よかろう、僕も、あなたの方針に干渉はするまい」  結城は笑った。きびしい微笑である。 「そのかわりあなたにも、僕の方針には口を出さんで貰うことにしよう。仕事をはなれれば、別に良があなたの方針に従わねばならんいわれもないだろうからね。時間がないので、これで失礼するが──あなたも、僕がこれでもいささか力は持っている人間だということは、忘れない方がいいと思うね。そのつもりでその子を扱うことだ。いわば──僕は、しかたなく良をあなたに預けておくんだからね。僕はいつもどこかで良から目をはなさんでいるよ」  結城は優美なしぐさで手をふり、かがみこんで良の頬を掌で押さえた。良の怯えた目がすがりつくように彼を見た。 「大丈夫だよ、良、もう滝さんはきみを撲りはしないさ。ゆっくり、休みなさい」  やさしく云い、二、三回うなずくと、彼は立ちあがった。出ようとして、ドアのノブを押さえたまま、滝をふりかえる。  滝は黙ってまっこうからその凄まじいものをほとばしる一歩寸前で押さえつけているような目を受けとめた。それは彼と結城とが、互いを敵どうしとして見かわす最初の火花だった。  結城は皮肉そうに眉をつりあげ、ちょっと笑った。かるくうなずいて、そのまま彼の長身をドアが隠した。  滝はしばらくドアの方を見つめたまま立っていた。彼の内に凝固した激烈な意志のあまりの強烈さに、しばらくのあいだ、それから身をもぎはなすことができなかったのだ。  エレベーターがしまり、おりてゆくかすかな音がし、やがて窓の外から、車の走り出す音がした。それが遠ざかるのをきいてから、おもむろに彼はこわばった姿勢を動かして、良をふりむいた。  良がびくりと壁に身をすりよせる。 「ばか野郎」  滝は苦い声音で云った。 「のら犬みたいに、びくつくな。もう叩きゃしないさ」  彼はかがみこんで、良を抱き起こした。 「しかたない、今夜は休んでいい。どっちみち、セッションだからな、お前が欠けてもそう大穴じゃない。しかしお前のために何時間も前から寒い中に並んでいる、遠くからきているファンが何百人もいるんだってことを、一回、よく考えてみろ」 「滝さん──」  良は泣き声を出した。 「ごめんなさい……」 「いいから、もう寝るんだな。飯は、食ってきたんだろう」 「うん……」 「先生のところでか」 「そう……」  滝は口をつぐみ、じっと良を見つめた。 (他の男と──)  かつて、まだいくらもたってはいないつい数カ月前までは、良が傷つき弱ったときに庇護を求めてとびこんでくるのは、必ず彼自身のふところであったのだと思う。  長崎の光あかるい街並、静かな枕もとを滝はこがれるように思った。 (良を守る──良を大切にする? 良を守っていたのは、おれだったのだ。良を見つけ、愛し、変え、育てたのはおれだったのだ。結城は何も知らないのだ。おれと良の、たしかにあったあの蜜月、互いが互いにとってすべてだったあのひそかな時間──おれは何回、何かにおびやかされたり、傷ついたりした良を肩にもたれさせ、腕に抱きしめ、夜どおし抱いてやっていたことか──良はおれのものだ。良はおれの──)  おれには、良を罰する資格があるのだ、と彼は思った。なぜなら、良は不貞を働いたからだ。 (不貞──) 「滝さん……」  良は不たしかな声を出した。滝の長い、痛切な凝視に、ふと不安をさそわれていた。おれはどうすればいいのか、いや、どうしろというのか、と悲哀に胸をふさがれて、彼はひとり呟いた。手をのばし、少年の青ざめた冷たい頬をさすろうとすると、良はつと身をひいた。それでも、滝は自分をおさえた。 「ばか──お前は、そんなに、おれが怖いのか。おれがお前のために、どれほど心配したかわからんのか、こんな顔をして──ばか野郎」 「滝さん──」 「もういいから休め。ベッドまで、連れていってやる。そんないくじのないことでどうするんだ──さあ、おれの肩につかまれ」 「大──丈夫だよ、ぼく自分で……」 「いいから来い」  滝は良を抱きかかえてベッドへ連れていった。良はかすかな吐息を洩らして、ベッドの上に斜めなりに身を投げ出したまま、目を閉じた。きゃしゃな手が、床へ垂れている。いま良を抱きしめて、詫びて、涙をそそいで、許されるものならば、良の足もとにひざまずいてもいい、と滝は思った。良とふたりきりの、あの蜜のひそんだ日々を取りかえしたい。だが、いま、良の心の中に、はたしてそんな記憶はいくらかでも残っているのだろうか。あやしいものだと滝は思った。彼は良を知っていた。 「着がえろよ」 「うん」 「おれが着がえさしてやるよ」  良は、滝の手が、シャツのボタンにかかると、急に怯えた目を見開いて彼を見あげた。 「何もしやしないさ」  滝は苦く呟いた。良を怯えさせるのも、無理はないのかもしれない。このところ、ふたりの仲が険悪になってからは、ほとんど毎晩のように、口答えする良をひっぱたき、叩かぬまでも手をふりあげていた。  良は良で、叩かれると見るとさっと逃げ腰になり、苛められつづけたので心がねじけてしまった野良猫といったようすで、びくびくしながら反抗心のかたまりになってわめきたてる。  その前には、良の咽喉に手をかけ、あわや殺しかけている。さらに昔、まだ出会っていくらもたたなかった良との最初の、そして結局二度きりだった関係も、滝が力づくで良に強いた、残酷なものだった。  おれはそんなに残酷な人間だろうか、と滝は思った。そんなことはない。あたたかな金色の陽光の中で良をこの手に守っていたような日々の中で、もっと美しい思い出も、やさしい画面も、あったはずだ。なければならなかった、それなのに、いま思いうかべる、良との日々にはすべて良を怯えさせ、滝をうとませてもしかたないような、粗暴な記憶ばかりをふたりのあいだにわだかまらせた。 「──お前は、いつから、そんなにおれを避けるようになったんだ」  滝はパジャマで良の肩をくるんでやりながらはかりしれぬ苦い悲しみで呟いた。良は黙りこくって、滝を見もせず、答えもしなかった。 「返事をしろ」 「何をよ──話は、あとにして。ぼく、休みたいんだよ」 「良!」  滝がわずかに声を荒らげたとたんに、良がまた怯えた。からだが何でもなければ、たちまち十言も云いかえしてくるところだろうが、疼痛に弱っているいまは、逃げるわけにもいかない。 (良──おれとお前は、いつから、こんなにゆきちがってしまったんだ。一度は、一心同体とまで云われた──ああ、良、お前は、あのことを、おれがお前を裏切った、殺そうとした、それがそんなに忘れられない、どうしても許すことができないなんてわけじゃないんだ。そんなのは嘘だ。お前は、──お前はおれよりも、もっとつごうのいい、もっと甘やかしてくれそうなひとを見つけただけなんだ) 「ねえ、お願いだから、もう怒らないで」  良は辛そうに、うるんだような目で滝を見あげて云った。声の中に、微妙な媚態があった。 「誰が、怒ってると云った」 「だって、撲るじゃないか──お願い。もう苛めないでよ……からだから、力が抜けたみたいで、何も考えられないんだよ。これ以上撲られたら、ほんとに、死んじゃうよ──ねえ、もう怒らないで」  甘えるような、哀願するような口調を滝は覚えていた。いつも、山下をなだめたりすかしたりして云うことをきかせようとするときに、こんな云い方をしていたと思う。なんの真摯さも、誠意のかけらもない、口先だけの媚態。山下|なみ《ヽヽ》か、と滝は思った。 (だがこの憎たらしいぐらい、可愛らしいようすはどうだ。いいかげんになればなるほど、まるで呑みこんでしまうような目でじっと見て、こっちの頭を狂わすような顔をして──)  滝はわずかに顔色が変るのを意識した。なんとかおさえたはずの激しい残忍な血がふたたびわきたってくる。  こうして彼の前で心を閉ざし、その場逃れの媚態をふりまき、彼の苦悩など目もくれようともしないこの少年に、彼は、手をふりあげ、苛立たしさのあまりほとんど泣かんばかりの思いを味わいながら、なすすべもなく良の透明なガラスのまわりをすべり落ちてゆくことばにたまりかねてそのきゃしゃなからだを踏みにじろうとする以外に、どうすることができたというのだろう。彼は山下ではなかった。良のごまかしの媚態は彼をなだめるかわりに荒々しく挑発し、彼の血をたぎらせた。彼は良が憎かった。 (いっそ、あのとき、殺してやればよかったんだ)  滝は眩しいかのように目を細くして、良を見下ろした。良のきゃしゃな手がパジャマの衿もとを押さえ、一方の手は投げ出されている。ぐったりとよこたわった姿態が滝に何か恐ろしく色情的な連想をさせた。良はなんとなく不安のおさまらぬ目でそっと睫毛のかげから滝をぬすみ見ている。  滝は、結城を思った。結城の、みごとに均斉のとれた体躯を思う。どちらかというと着痩せするたちのようだ。すらりと瀟洒に見えるが、がっしりと太い首、広い肩幅、逞しい腰、長い脚、おそらく泰西の彫刻のように素晴らしい裸像にちがいない。日本人にはめったにない、完全な筋肉質の闘士型のからだつきだ。大半の西洋人と伍してもひけはとるまい。  その、結城の裸形を、滝は、知らず知らず、目の前の、打ちひしがれたように力なく身をよこたえているほっそりした少年の上にかさねあわせた。良のいたいたしい苦痛の表情が滝のまぶたをよぎった。  きつく眉根を寄せ、血の気のない顔を汗に濡らして、必死にほとばしろうとする悲鳴をかみこらえようとする、良の表情を、滝は何回も見ているわけではなかったが、しかし、その衝撃的な妖しいなまめかしさに心を呪縛されるくらいには知っていた。  それは、ひとつひとつがきわだって鮮烈な良のすべての表情の中でさえ、頭を狂わせるほどのあってはならぬ悪魔的な美しさを見せる、比べようもない良の魅力のさいごの秘密だった。滝はそれが彼自身の独占物であると思うことに、ひそかな痺れるような陶酔を感じ、それを見るかもしれぬすべての男に嫉妬した。  モニター・カメラが歌う良をアップにとらえ、悲恋の情感がたかまるままに良が眉を寄せて目を閉じるとき、滝は彼の腕の中で苦痛に喘ぐ良のあやしい幻影をその上に見てはっと胸をつかれ、うろたえて目をそらし、同時にするどい嫉妬を覚えて周囲を見まわしたものだ。できれば他の誰ひとりにも見せたくない、彼ひとりの良のその表情を、昨日の夜、結城が見たのだ。  その逞しいからだの下に組み敷いて、月桂樹と化してゆくダフネのように身をよじる良の苦悶を、彼は見つめたはずだ。どんな男の魂をも呪縛し、心の最も深い奥底にまで食い入り、食い荒らし、強烈な阿片の毒で男を狂わせてしまわずにはおかない──それゆえにこそ、滝が、決して自分以外の男には見せたくなかったその良を。  おれをさえ、耐えられなかった良だ、と滝は、ゆっくりとからだの奥からかけのぼってきて、脳をおおいつくそうとする、なまぬるい血の味のする激情をわれからあおりたてるように思った。結城を受け入れることは、このきゃしゃなどこかできそこなったからだにとってどんな苦しみだったろう。  ふいに酩酊に似た戦慄が彼のからだの芯をつきぬけて、彼をよろめかせた。異様な興奮に喘ぎながら、何か云おうとして彼は唇をいくどか動かした。それは、ことばにならなかった。怒りとも、悲痛とも、嫉妬とも、欲情ともつかぬ昂ぶりは、ついに彼の頭のてっぺんまでかけのぼり、彼を押し流した。滝は喘いだ。 「見せろ」  激しく、呼吸を荒くしながら、しゃがれた声で滝は囁いた。 「見せてみろ──どのくらい、酷いめにあわされたのだか、見てやる──云うことをきけ!」 「滝さん!」  良が、弱々しい悲鳴をあげた。みるみる、すくみあがって、布団にしがみつこうとする。 「何するの──」 「手当してやるんだ──何も怖がることはない」  滝の唇が激しくゆがんだ。彼は易々と布団をはぎとり、思いきりよくパジャマをひきおろした。良は抵抗しなかった。できなかったのだ。いためつけられた体力も、気力もとっくにつきはててしまっていた。  滝の手が、両手でおおいつくせそうな、細くひきしまった少年の腰にまわって、容赦なく押し開いたとき、良はかすかな呻き声をあげ、そのまま赤児のように小さく嗚咽しはじめた。限界にきた弱りはてた心が、ぷつりと切れてしまう寸前のような、いたいたしい力ない嗚咽である。滝は斟酌しなかった。彼は灼けつくような目で、傷つけられたからだを凝視し、故意に、嗜虐的な欲望にかられて、激しく押しひろげ、両方の親指を強くくいこませた。良は弱々しく身をもだえて、滝の手から逃れようとする。 「いたい──お願いだから……」  良は啜り泣いた。 「お願い──やめて……ぼく──死んじゃうよ……いたい──」  滝の口がからからにかわいていた。彼はかわいた唇を舐めた。なぜいけないのだ、と彼は自問した。おれはどうせ残酷な、むごい、人間なのだ。そのようにこの子を扱ってきたのだ。それなら──このひき裂かれた、いたいたしく傷ついてまだ血まみれのからだになぜ身を埋めてはいけないわけがあるのだ。身に、はじめて男を受け入れさせ、こんな世界へひきずりこんだのはおれではないのか。  良はおれのものなのだ──おれが流させる血で、他の男に汚されたこいつのからだを清めてやってなぜわるいのだ。なぜ黙って、良が結城に奪い去られてゆくのを見ていなければならないのか。なぜだ……  滝は歯を食いしばった。彼はゆっくりと、手をはなし、ベルトをひきぬいた。  良が激しく、生唾を飲みこんだ。死ぬほどの恐怖に凍りついた目で滝を見あげた。まだ、可憐な顔が涙に汚れている。滝は服をぬごうとした。 「そんな──そんなひどいこと……」  良の声がかすれた。ことばになるまでに、幾度も唾を飲みこんで、声をととのえねばならなかった。からだを隠そうと、弱々しく布団をひき寄せようとした手が途中でとまった。わずかでも動けば、たちまち襲いかかる殺気が滝のたけだけしくひきしめられた全身にあったのだ。 「ぼくは──死んじまうよ……」  良は絶体絶命になった。それはそうかもしれないと滝のなかの狂ったようなものが、にやにやとすさまじい嗜虐の笑みを洩らした。 「ひ……ひどすぎる──そんなこと、しないで……しないでしょう? こ──殺すつもりなの?」  良の喘ぐような声の底に、あんたはぼくを殺しかけたんだ、というほのめかしがひそんでいた。だが、それはいまの滝にはただいっそうの残酷さをあおりたてるにすぎなかった。過失は、なされてしまった。許しを乞うても、許す良ではない。それならば、滝にはただ、自らを悪魔に売り渡し、嗜虐の鞭を手にして、良と自分自身とをとことん追いつめてゆくより他の途は残されてはいないのだ。  滝はゆっくりと獲物に近づいた。良のからだから、恐怖のあまり、すべての力が抜けていた。いまにも意識を失いそうに、良はぼんやりした目で滝を見た。  そしてふいに、良は、天啓のようにひらめいた考えにすがりついた。地獄の苦痛をまぬかれたい一心だった。 「ぼくにさわらないで! ぼくに……ぼくに怪我をさせたら──ぼくを苛めたら、結城先生があなたを殺すよ! ほんとうだよ──先生が……」 「良!」 「先生はぼくを守ってくれるんだから! 先生はあなたなんかよりずっと強いんだ──滝さんなんか嫌いだ! 大嫌いだ! それ以上ぼくに一歩でも近づいたら……もう二度と滝さんの云うことなんかきかないよ! ──先生に頼んで、あなたなんか、二度と──二度とぼくの前に顔を出さないようにさせるから! あなたの云うことなんかきかないよ──きくもんか……いつだってぼくにひどいことばっかりしてるじゃないか。いつだって! ぼくが死んじまえばいいと思ってるんだ。わかってるんだ。あなたは、ぼくを、憎んでるんだ。ぼくが思いどおりにならないからって──ぼくを……」 「良!」  滝はだらりと両手をさげて、その場に立ち尽した。云いつのるうちに、弱々しい激昂にかきたてられて、良の蒼白な頬を妙に病的にすきとおった血の色がいろどった。良の目は憎悪にくるめいていた。それは異様に輝くふたつの猫の目だった。  良の声はかすれて、いつもの反抗にくらべていかにも衰弱しきったように力なかったが、それはかえって滝の心に凍りつくような呪詛と嫌悪をふきつけてきた。滝の目から狂おしい欲情が吹きけされたように消えた。彼はほとばしるような声で呼んだ。 「良──」 「先生があなたを殺すから……」 「良……」  滝は良を凝視した。彼を襲った悲痛はほとんど物理的な衝撃になって彼をよろめかせた。 (良──お前は、このおれに、そんなことを云うのか……云えるのか──お前は、お前を見つけて育ててやったこのおれよりも、昨日今日お前にやさしくしてくれたというだけの結城が好きだというのか……) 「あっちへ行ってよ!」  良は、ふいに殴りつけられたように茫然としてしまった滝の表情に、敏感にも、もはや滝が自分をどうする力もないのをかぎとっていた。良の目に、かさにかかってたけだけしく攻撃に転ずる猫の残酷なかぎろいがうかぶのを滝は見た。 「もうぼくを放っといてったら! あっちへ行って──あした、カラオケ録りじゃないか。あなただって、ぼくが病気になったら困るんでしょう。もうお願いだからぼくにさわらないでよ!」 「良──」  滝の唇から、もう、激昂も、嚇怒も、表現するべきことばを失ってしまったかのように見えた。滝はただふりしぼるように良の名をくりかえした。その名のほかのことばを忘れたように、彼は良の名を呼んだ。  良は力ない、しかしすべての訴えもこころみをも決して受けつけまいという手きびしい拒否をはっきりと伝える氷のような目で滝を見すえ、それからいきなり布団をほっそりした裸身の上にひきあげた。激しくからだを動かしたためにいたみにびくりと眉をひそめながら、頭の上まで布団をひっぱりあげ、それだけでは足りぬように布団にくるまったままくるりと背を向けてしまう。  滝は手のつけようもなくそんな良を見つめていた。良の心が、彼の掌の中からすりぬけてゆく。冷たいガラスの殻が良の周囲にはりつめているかのようだ。どうしろというのだろう、とふたたび、滝はおのれの無力にうちひしがれながら思った。  良を、殺すべきなのかもしれない。彼の手の中にその美しい肉体を残したまま、結城のもとへ逃げてゆこうとしている良の心が、もう取りかえしがつかぬまでに結城のものになってしまう前に。その気まぐれでとらえどころのない良の心の中に結城がたしかに棲みついてしまう前に、その細い少年の首をつかみ、かつて仕損じたことをしまいまでやりとげてしまうべきなのかもしれない。  さもなければ良の足もとに身を投げて、哀願するのだ。許してくれ、自分を憎まないでくれ、おれはいつでもお前の奴隷なのだと。もう二度と冒涜の罪など思いもせぬし、たとえどんなにさげすまれようとも、犬同然に扱われようとも反逆の夢など見はしないからと。どうしたら許しが得られるのか、云ってくれさえすれば、卑屈にその足を舐めてもいい。その足に蹴られてもかまわない。ただその冷たい風のような心のどこかの隅にこっそりと自分を這いこませてくれさえすれば、まったく彼を忘れはてて、路傍の石ころを見るような目でさえ見なければ。  あらゆる気狂いじみた想念が、いっぺんに滝のうちにつきあげ、彼をかきまわした。それはすべて最も狂おしい希望から、最も絶望的な煩悶まで、結局ただひとつのことばにつながれ、そこからほとばしってくるのだった。良を失うことだけには耐えられない。良を失うことはできない。ただそれだけである。 (良──お願いだ。おれをすてないでくれ)  滝の第二の、そしておそらくもっとも強固な本性となっている彼の自尊心が、彼にたがをはめ、彼の口を封じ、彼の手足をすくませていた。だがその中では、彼が自らの第一の本性と信じていた彼の、常に彼を支配しているはずだったすべての理性はめちゃめちゃにかき乱され、彼を凍りつかせているさいごの自尊心の砦にさからって狂ったようにわめきたて、あらゆるおろかなことを、良の首に手をかけることからその足下に這いつくばってその脚にとりすがって泣きわめくことまで、あふれかえる衝動のままに試してみたがって彼を激しくゆさぶっているのだった。  いっそどんなにか彼はその激動のひとつひとつに身をまかせきって、彼はきずきあげてきたすべての彼の生に背き、ただそのかわりに良で彼自身を満たしてしまいたかったか知れない。良を失うことにくらべれば、良の一顰一笑に従って這いまわる卑屈な犬に身を落すことがなんだというのだろう──だが、そのあらゆる、つきあげてくる叫びにもかかわらず、彼はできなかった。滝俊介という一個の男の三十七年間の生のすべてが、それを打ちこわされ、無にかえされ、背き去られることに死にものぐるいでさからっていた。  滝は一個の戦場と化して、内奥に荒れ狂う業火のような拮抗に身動きひとつできず、良の名を口にすることもできず、苦しく息さえもひそめてその場に立ち尽していた。激烈な力がかかってでもいるようにぶるぶると震えてひきつっている拳と首の筋肉だけが彼の内奥の戦いの苦悶をかいま見せていた。  突然、良は布団をはねのけて身を起こした。 「まだ、いたの?」  苛立たしい憤懣をこめて、吐きすてるように少年はことばを投げつけた。たまりかねたような、ヒステリックな憎悪の表情が端麗な顔をひきつらせていた。布団をひっかぶって、背をむけながら、全身の神経を極限まではりつめて、滝のようすをうかがっていたのにちがいなかった。唇が激しく歪んでななめにひき結ばれた。その瞬間、良はまったく見知らぬ表情をしていた。醜いとすら云っていい、ただ邪悪な感情だけがあらわれている、そのくせぞっとするような淫らなほどの蠱惑が漂う、魔物の本性むきだしになった顔だった。  ゆるやかにのめり動く極彩色の蛇か、毒液をしたたらせる|さそり《ヽヽヽ》のような、何か恐ろしく邪悪で気味のわるい、それでいて目を吸いつけられたきりはなせなくなる魅力を感じさせる悪魔の眷族と向きあうような戦慄が滝をとらえた。 「もう放っといてって、云ったじゃない。ひと晩、そこに立って、ぼくを見ているつもりなの?」  良は激しく眉をしかめた。すみずみまで、そのどんな魅惑でも知り尽していると信じていた良のその美しい顔がうかべる毒婦の悪相が、滝に、その顔をナイフでずたずたに切りさいなんでやりたいような感じを起こさせたが、しかし、その一方では、それは、彼のかつて知らなかった良の新しい美として、彼の目に灼きついてきた。良は美しかった。こんなときでも、かぎりなく邪悪に、かぎりなく醜悪なまでに、妖美な魔力が彼の心臓に強烈な耽溺の毒を注ぎこみ、たぎらせ、灼きつくすのだ。 (良! ──おれは……)  彼は喘いだ。彼の中から激しい拮抗がゆっくりと消え去ってゆく。彼には、この良に手をかけることは不可能だった。しかしまた、この邪悪な感情の毒をしたたらせる少年の足もとに身を投げて卑屈に憐れみを乞おうとする勇気もくじけてしまっていた。結局彼には何ひとつできないのだ。 (何ひとつ……) 「なら勝手にしたらいい。ぼくの知ったことじゃない」  荒々しい苛立ちを、髪をぐいとふりやった頭の動きにみせて、良は云った。それから、思い出したようにつけ加えた。 「滝さんは、ぼくのこと、先生に云ったんだね。みゆきのママのこととか、山下先生のこととかさ。先生がぼくを嫌いになるようにって。──あなたは、卑怯だよ。いやらしい、下司なやりかただよ。そうだってことは──知っていたけど。いろんな人があなたのこと、汚ない悪党だっていうけど、信じたくなかったんだ──いままではね。でも、もうわかったよ。ぼくは、二度と、忘れないよ。あなたがどんな男なんだかってこと」  滝は何も云わなかった。良は、ただ、滝を傷つけおとしめるために云ったのだ。滝は、じっと良を見つめた。美しい良。悪魔のような良。良がどんなところを見せようと、どんな態度をとろうと、何を云おうと、良を愛することをやめられぬ以上、彼に何ができるというのだったろう。滝は、やがて、わずかに不安そうににらみかえしている良から、目をそらし、黙って寝室を出てうしろ手に戸をしめた。 [#改ページ]     23  それは滝にとって、はじめて知る、他人《ひと》ゆえの苦悩の日々のはじまりであった。  滝の胸の奥に、灼けるような苦悶がわだかまっている。──自らのほかの何ものをも信じず、誰とも心をわかちあうまいとして生きてきた彼に対する罰のように、彼がはじめてそのひとがいなくては生きてはゆけぬ自分に気づいたとき、その相手の心は彼の前ですでに閉ざされてしまっていた。  良を見る彼の目に、サングラスに隠されて、たえず、こがれ訴えながら、同時にむごい自己制止を強いられているような、休まるいとまのない葛藤の苦しさがひそんでいる。  一夜ほとんど一睡もせず、ひとことも口をきかず、ひとつの寝室にベッドを並べながら背中を向けあって、息づまるような気まずい夜をすごしてからは、少なくとも表面上は、かれらは怒るだけ怒りあってさっぱりと和解したかのようになにごともないことばをかわし、それまでどおりの日々を送っているようにみえた。  良の気まぐれで投げやりな態度、滝の人あたりのいい、心中を誰にものぞかせまいとするようす、どこにもこれという変化のきざしはない。  おそらく、良にとっては、たしかに心の中にも、別になにも変ったことなどないのだろうさ──、滝は苦々しく考えた。自分に直接影響が及ぼされないかぎりにおいては、たとえば危害を加えられたり、利害が及んできたりすることがないなら、たいていのことはゆきあたりばったり、気分はそのときかぎりで、何がどうだってかまやしない、という良である。滝と大喧嘩をした翌日でも、滝が平静に話しかければ、つまらなさそうに面倒くさげな返事をし、滝が注意をすればうるさがり、結城が食事を誘っているからといって嬉々としてスタジオを出ていった。  良の心には、自分の快楽や、気分以外のことはほとんどしみこんでは来ないのだ。滝が一晩苦しみつづけて、悶々とした顔で起きてこようと、かろうじて自らをおさえて仲直りしようじゃないか、良、おれがわるかったよ、と云い出そうと、いったん興味を失ったあいての心の中で起こっていることなど何ひとつ知ろうとすら思わぬ良だった。  だが、滝の方は、そうはいかない。どちらかといえば粘着気質の、ひとつのことに心をそそぐ型の人間である。考えはじめれば昼も夜も、良のための苦悩に心をとられずにはいられない。まして彼はすでに良のために他のすべての仕事を自らすてていた。  その良とうまくゆかないのだ。良が、目の届くところにいれば、現に誰かと話をしながらでも目は飢えたように良の姿を求めずにはいられないし、良がはなれたところにいれば、良のことを考えずにはいられない。  良が結城と出かければ、いまごろはどこ、いまごろはここ、とそれからそれへ思いつづけ、ついにベッドの中でからみあう裸身の映像を自らをさいなむようにありありと瞼に描き出さずにはいられない。いくら、他人の前ではつくろっていても、おのずと目もきけば彼をよく知っていて、彼を気にかけてくれる人間はごまかせなかった。 「あんた、このごろ、変だね、滝チャン」  何かのおりにかこつけて、個人的な親友の間柄でもある社長のデューク尾崎に云われてしまった。 「いつもぼんやりしてさ、頭半分でよそのこと考えてるようだよ」 「そんなこた、ありませんよ、デューク」 「おれにまでつくろわなくたっていいじゃないの。そりゃ、あんたがお節介焼かれるの、嫌いなことは知ってるけどさ。あんたが気が散っていい仕事ができなけりゃ、それ全部ジョニーの、つまりはうちの業務にはねかえるんだからね。でもどうしてなのってことだよ。『明日なき恋』はミリオンを出したし、『甘い関係』も発売さっそくうなぎのぼりだし、何もかも、とんとん拍子にいくばっかりなのにさ。ジョニーも、結城先生に気に入られて、ひき立てて貰ってるんだそうだし」  デュークはふとった指をふった。 「ねえ、おれは滝チャンの上司であると同時に友達だ。こりゃ、友達として云うんだから、出すぎたことだと思うだろうが、勘弁してくれよ。あんた──ミミちゃんと別れてさ、後悔してるのとちがうか」 「もうそろそろ三、四カ月たつじゃないですか」  滝は肩をすくめた。 「あたしゃ、そんなに未練がましい男じゃない。それに、ミミとのことは、大人どうしのことですからね。お互い、恨みっこなしで別れてますよ」 「しかし、そのあとミミの方もどうも鳴かず飛ばずで、元気がない。こないだ石黒にハッパかけたんだけど、ステージでもどうも全盛期みたいな張りがない、のって来ないんだねえ。ひょっとして、お宅らお互いにひそかに意地張ったこと後悔して、恋いこがれあってるんじゃないかと思ってさあ」 「よして下さいよ」  滝は低く力ない苦笑を洩らした。 「私と彼女がそんな仲だったかどうかは、あんたがいちばんよく知ってるはずじゃないですか。デューク、私は彼女に惚れてやしませんでしたよ」 「と自分で思いこんでただけじゃないの。おれはこのごろわかってきたんだが、あんたのこと、人は、情ごわで、したたか者で、やくざな典型的なマスコミ人種だと思ってるし、あんた自身もそう思わせようとして骨折ってるみたいだが、たしかにそれはそうなんだろうけど、ひと皮むきゃ、滝チャンて、救いがたいロマンチストで、ピューリタンで、≪男の純情≫型の人物なのとちがうかね」 「かも知れない。大甘で、偽悪派ぶってるっていうんでしょう」 「こいつは、マカベの吉本あたりがきいたら、ひっくりかえって笑うだろうな」  デュークはくすくす笑った。 「滝俊介が自分のことを大甘の偽悪派だなんて云うのをきいたらね。じゃやっぱり、ミミが忘れられないのか。ねえ、滝チャン、あんたが彼女とよりを戻したいてのなら、口をきいてやってもいいんだよ。正直いって、もうミミは盛りをすぎてる。このごろやつれて容色も落ちたってひそひそ云われてるし、本人もいろいろと気が散ってるようだ。あんたが、ミミを女房にしたけりゃ、おれが月下氷人てことに──」 「だめですよ、あいにく、私はミミにふられたんです」  滝はにやりとして云った。 「私の方でもその気はあったんですがね。デューク、友達甲斐に、これ以上ほじくらんで下さいよ。お互いに長い付合いだ。あんたのそう云ってくれる気持はわかりますよ。もう、ミミみたいな、ジャズ系のポップス・シンガーの時代はおわりだ。これからはエイト・ビートの、子供向けの曲づくりをしてかなくちゃならないし、げんにうちの大看板はもう良の奴に移ってる。となると、なまじ看板を背負ってたことがあるだけに、ミミなんかがいちばんしまつに困る、これからは仕事も徐々に減るだろうし、それでいて待遇は落せないしっていうんでしょう。でも、それだからってあたしに自由をすてろってのは、ひどいじゃないですか。せっかく三十七年守りとおした貴重な自由だ。操は守らせて下さいよ」 「何云ってんの、うまいこと云って」  デュークはようやく安心したらしかった。 「やっぱり、たいしておれが心配することもないみたいだな。呆れたもんだよ──ただおれは、どうもあんたがぼんやりして、あんたらしくもないからさ、気をまわすのが役目みたいな立場だからねえ。──ねえ、滝チャン、こりゃ念のためにきくんだけど、あんたジョニーとうまくいってんだろうね」 「別に何も──何故です?」 「いや、だとすると何でだろうと思ってさ。だよねえ、大体、あのコはあんたと暮らしてるんだしさ──変なこときくけど、あんたあのコと寝てるの?」 「きょうはあんたどうかしてる」  滝は笑ってみせながら、我ながらゴム糊ではりつけたような笑顔だろうと思った。 「あたしが良と? あたしゃ、あれのマネですよ。商品に手を出してちゃ、つとまりませんよ」 「だろうと思ったんだけどさ。あのコ結城先生に可愛がられてるってもう衆知の事実だしさ。あんなきれいなコでいまが花の盛りで無理ないけど、よくあああとからあとから、しかも結城修二のような人までひっかかるもんだってみんな云ってるものね──たださ、おれは、それでミミとだめになったのかと思って」 「もう、そりゃ、心配しないで下さいよ。結局ミミの方で、私みたいな先のない相手と付合うのにいやけがさしたってだけのことです。あれでもう三十婆あですからね。女も、三十すぎると、気楽なプレイメイトよりも、堅くて尻に敷ける野暮天の亭主をさがそうって気になるんでしょう。彼女の付人が石黒の女房になったのがショックだったみたいですしね」 「女って、そうなのかね。ミミでも」 「彼女は、根は女らしいですからね」  その場はなんとか話をそらして、結局ごまかしてしまったが、こんな状態が長くつづけば、そしてこれ以上良が結城と接近してゆき、それにともなって苦しみが増すのならば、いつかは確実にごまかしきれなくなる、隠しようもなくあらわれてしまう、おれのすべての心中が、と滝は思った。  苦悩は、あまり彼に馴染深い感情ではない。ひとの心を恋い求め、それを得られずにひとり悶々としたことなど、これまでなかった。滝はその不馴れな事態にどう対処すべきなのか、わからなかった。  こんなとき、ミミがいてくれたら、と思う。彼女は自らを、恋愛のエキスパートと呼んでいた。適切な助言をしてくれ、慰めてくれ、どうすればよいのか教えてくれただろうと思う。  しかし、ミミはもう二度と滝との友情を復活させる気はなかった。前に、ミミを傷つけた、いたみを感じて、滝が廊下ですれちがいざまに、固い表情で逃げ去ろうとした彼女をとらえて許してくれと云ったときに、彼女は肩をすくめて、しばらく待って、と云ったのだ。 「きっとしばらくしたら、許す気になると思うわ。いまは当分あなたと良ちゃんのことききたくもないのよ。それに、愚かな夢を見ないことね、もう二度と──良ちゃんがあなたの運命だわ。かれがいるかぎり、あなたは他の女に目を向けようなんて考えないことね」  ミミは、いまの良とおれの関係を知ったらなんというだろう、と滝は思った。冷たい目で、つまらなそうに、滝を見る良、結城を真似して、眉をきゅっとつりあげて、冷笑的な顔つきをする癖のついた良、楽屋で、スタジオで、マンションで、滝が何か云うたびに、いかにも従順で無抵抗な態度の中に実に彼をむかむかさせる、うるさいなあといううんざりしたようなほのめかしを巧妙に忍びこませる良、結城があらわれたとたんにぱっと生きかえったように表情から倦怠が消え、肌の色さえ匂いたつようになまめかしくなる良。  良は結城を愛しているのだろうか、と暇さえあれば滝は考えた。結城が良を愛するのはいい。その愛が良を滝からひきはなそうとせぬかぎり、それには別に滝は苦痛を感じはしない。しかし、良は、結城を愛しているのだろうか、それともその庇護と大きな愛情に抱きとられてぬくぬくとまどろむ快さにうっとりと身をゆだねて、結城を慕っているというだけなのか。それが最も滝をしつこく悩ませる疑問だった。  良に、人を愛することができるとは思われない。良の心は稚くてどこか不具だ。猫に、真の意味で人を愛するなどということは可能なのだろうか。それだけは耐えられない、と滝は思った。  結城が良を愛するのはかまわない。良が結城を慕うのも、嫉妬をかき立てられ、苦痛ではあるが、なんとか耐えられよう。かつてあれだけ、稚な子のように滝に慕いよってきた良であれば、良のそんな気持がいかにうわついた、気まぐれな深みのない感情であるか彼にはわかるからだ。 (と、すれば──いつか結城がしくじったときに、良が再びおれになびいて来ぬものでもない)  あさましい希望とは思いながら、そんな思いもまた彼の心のどこかに性懲りもなくしがみついているのだ。  しかし、もし、良が結城を愛しているなら──そんなことは不可能だ、それはひどすぎる、それだけには耐えられない、と彼は激しく思った。良にひとを愛することなどできるわけがないのだと自らに云いきかせながらも、結城の、あらゆる恵まれた魅力を思いうかべ、万が一、と考えただけで滝は血が逆流するようなものを感じる。  ほんとうのところをそれで知ることができるものならば、良の胸を切り開いてもみたい、と滝は思った。 (良が奴をほんとうに愛しているとでもいうのだったら、何があっても、どうなろうとも、誓って殺してやる。殺してやる。良を殺して、おれも地獄の底まで追いかけていってやるからな)  彼を真に苦しめることは、それゆえ、二つの逃亡だった。そのからだを彼の手に残したまま、良の心が結城のもとへ逃げ去ってしまうこと。それから、結城が良を、決定的に彼からひきはなし、連れ去ってしまうこと。その他のことは問題ではない。  滝の心の中で日に日にその妄念はたかまり、新しい朝がくるたびに、まだ良はおれの手の中にいる、とたしかめ、夜がおりるたびごとに、今日も、何も恐れているようなことは起こらなかった、と安堵した。それはまことに、岩につながれて肝臓を大鷲についばまれながら、朝になるともとどおりのからだに戻って再び妖鳥の餌食にされたというプロメテウスの苦悶にも似た、かえって苦痛にみちた蘇生だった。  滝の目はいまでは、たえず良の上をさまよい、何かのしるしを、この心の扉を閉ざしてしまった、その稚い頭の中でどんな気まぐれな考えを抱いているのかもとからあまり知らせたがらない少年の、内心の秘密をあかすようなどんな切れはしでも、刻まれていはせぬか、ちょっとしたまなざしや放心した表情がついうっかりと心の底をのぞかせてしまってはいぬかとたえずさぐり求めるようになっていた。 「何見てんの、さっきからひとの顔ばかり見てて」  神経質で癇の強い彼の商品は、それに気づきさえすれば遠慮えしゃくなしに彼にけんつくを食わせてきて、かえって彼を取り乱させてしまう危険もたしかに存在していたのだが、それはもはや磁石のS極がN極にむかずにはいられないような、彼の意志の制御をこえてしまった吸引力なのだった。  いまにも失いはせぬか、奪われはせぬか、恐れている他の男への愛のあかしがその顔にうかびはせぬかという絶望的な苦悶を秘めて見つめる彼の目に、しかし、奇妙にも、というべきか、当然、というべきか、良はいよいよ美しく、蠱惑をまして、そのどんなささいな陰翳、一瞬の表情にいたるまで、比べようもない生き生きとした影像となって輝きを増しているのである。  それが自分のものであるのなら、あらためてしみじみと見惚れる愛人の美しさ、たとえようもない可憐な表情、なまめかしい表情、邪悪な妖美な表情、凄艶、清澄、無心、そのひとつひとつの魅力が、どれだけの新鮮な誇りをわきあがらせて心を満たしてくれたことだろう。  だが、滝の憐れさは、頬にすきとおる血の色をのぼらせ、目をうるませた怖いように色っぽい良を見れば、結城への愛情ゆえではないのかと胸をえぐられ、冷淡な可愛らしい表情を見れば員数外とばかり閉め出しをくっている自分を痛切に感じ、我儘な意地悪な、悪魔の妖しい魅力をふんだんにまき散らしている良を見ればその心の中ではすでに滝の埋葬はおわってしまっていることを示しているのではないかとわきかえる憤怒を抱かずにはいられない。日々はたえまない責苦の場となった。  そんな彼の心中の嵐を知ってか知らずか、知っていても何とも思わぬのか、良は滝の頬に苦悩のそげたような線が刻まれ、サングラスの奥で目が苦しい光を帯びてくるのに比例するように、勝ち誇って生き生きと我儘な花の美を増していた。 「どう、このごろ、またきれいになったんじゃない」  女傑の北川デザイナーが衣装の仮縫のたびに口癖のように云う。 「やだな、この前も云ったじゃないの」 「あれから、また、よ。いいわねえ、花なら盛りってとこね。何着せてもはえるったら、この調子でまだ磨かれていくんなら、そのうちに、衣通姫みたいに後光がさしそうね。ね、滝チャン」  何の他意もないのだろうが、華やかな、美しい布やマネキンでとりちらかしたアトリエの隅にかけて、くいいるように、デザイナーの手でいじりまわされている良に目を注いでいた滝はぎくりとする。 「あんまり、おだてんで下さい、その子は、おっちょこちょいですからねえ」  口だけは如才なく、打てばひびく返事をかえしているが、頭から血がひく思いのする滝だった。誰のためなのだ、と思うのだ。だが、美しい、と思う。彼のあらゆる苦悶ですら、憤怒ですら、良の美しさ、というこの圧倒的な一事の前には、立ち向う勇気さえくじけてしまう。ジーンズひとつのほっそりした裸身になって、ピンク色のレースだの、霞のようなオーガンジーだのを、北川女史に巻きつけて貰って、良の頬は妖しく紅潮している。  愛撫するように繊細なからだにまとわりつく布を、しなやかな手ですくいあげ、領巾《ひれ》をふる踊り女のようにひらひらとターンしてみせる。  悪戯ッ子のように、布の端を頭に巻きつけたり、アラビアの被布を真似て頭をおおってあまりで首を巻いてみたり、ギリシャふうに一方の肩をむき出して、鏡の前で気取ったポーズをしてみせたりする。胸に、結城のくれたペンダントが輝いている。  仮縫室に女史のいいつけた布だの、饗応する紅茶などを持って入ってきた針子の娘などは、足をとめ、息がとまったような顔になって、そんな良を見つめた。 「サロメね──!」  北川女史が嘆声をあげる。 「この肌、どう。すきとおってるじゃないの。なんだか、血と肉でできてるんじゃ、ないようよ。この唇、この目! まったく、男って、どうしてときどきこう、怖いぐらいにきれいなのがいるんだろうね。ねえ、滝チャン、あたしが臣ちゃんのデザイナーしてんの知ってるでしょう」 「ああ、そうでしたね」  滝ははっとしながら答えた。三輪臣吾──その、神代以来の美少年と騒がれた女装のシャンソン歌手も、一時、もう五、六年も前になるか、結城と浮名を流したことがあったと思い出したのだ。 「あの人ももう四十すぎちゃ、まあまだ見られはするけどさあ──あたしあの人の全盛期知ってんのよ。そりゃもう、こっちが眩しくって目、あけてられないくらいだったわよ。あの人すごいからねえ、紫色に頭染めて、紫のドレスに白と金をあしらうって好みだったけれど、それがまた着こなすんだものねえ。あれ以来、はじめてよ、これだけのモデル貰うのは。まったく思うけど、女の美人なんて所詮たかが知れてるわね。ありきたりでさ、ほんとうの凄い美貌ってのはやっぱり男だわよ。女は、ありゃ、コピーだわ。女で良ちゃんのとなりにきて恥かしがらなくていいコなんて、そうだな、吉村百合──ありゃ後光がさしてるわ──それに新劇座の千田麗子と、まずそんなもンじゃないの。桃恵、純子なんて、きれいってのとはちがうしさ、瀬川美鈴や水垣弥生子なんて昔は何でも五十すぎじゃさあ」 「私はフェミニストですからね、そのご意見には、何とも申しあげかねますなあ」 「とにかく白着せりゃ白がいいし黒着せりゃこれがまたすごいし、どんなのだってその服着て生まれてきたみたいにこなしちまうんだから」  北川女史はいくぶん照れて頬をうすく染めている良の頭を指でつついた。 「まったくミメうるわしくって、憎たらしいぐらいよ」  良は困惑したようににやにやしているが、女にしたいような美貌への讃辞などほんとうはいいかげんきき飽きていた。天草四郎のようだの、ナルシスだの、ドリアン・グレイをやらせてみたいのと、降るような讃辞や、もっと直接なファンの気狂いじみた嬌声、熱い視線、憧れと崇拝にうっとりするような吐息などは、いつでも良をつつんでいる。  ステージに立てばジョニー、ジョニー、という歓声で歌などきこえもしない始末だし、ポスターは夜の間にグルーピーたちがはがしていってしまう。マンションの前にすら、深夜まで良をひと目見ようとする少女たちがそっと立っていたりし、滝がファンの電話責めとプレゼント責めにうんざりして、ついに番号を変更して公表を控えたくらいだった。  熱狂には、良はすでに馴れていた。それはこころよい香りのように良をほんのりと上気させるだけである。それよりも、新しいゲーム──立派な、えらい男をとりこにし、惑溺させようとする快さがいまの良の心をすっかりひきつけていた。  甘い耽溺と庇護の中でひそかな勝利を数えるスリルと誇らしさが、良のものに倦きたような投げやりな心を陶酔させている。 (きみに夢中だよ……)  結城の囁きが耳朶に熱く、少年の心をくすぐって得意さにふくらませる。良を飼い馴らしてみせると公言した結城だったが、どうやら飼い馴らされかけているのは彼の方だった。もっとも、根底に力強く根をすえた、彼の強烈な意志の統御があってこそ、彼は自らに甘やかな惑溺を許すのだろうが、それにしてもそれは彼にとっては計算外のことにちがいなく、それゆえ笑いを含んで、心にくいこむ愛のいたみを端正な顔に見せて良を見つめるとき、彼の微笑はほのかな怒りに似た苦みを隠した。  良は頓着しない。 「先生──」  良が幾多の勝利をこっそり数えあげるたびに、猫の表情がこの手に負えぬ少年を輝かせた。結城は唸るように、そんな良を見つめて、微笑する。 「きれいだよ──ジョニー」  いまでは、三日にあげず結城は良と待ちあわせ、あちこち連れ歩き、完全にかつての山下の位置に、少なくともその行動だけをみれば、入りこんでしまっていた。  レビュー、試写会、酒の席、スタジオ、レッスンと、美しい壮年の偉丈夫と花のような少年の一対は、傍若無人にその恋を誇って、見るものに胸苦しいような讃嘆を強いながら出歩いた。ひとびとはいたるところでその傲慢な美しい禁色の恋人たちの姿を見るような気がした。それほどかれらは目立ったし、華やかに美しかったのだ。  結城は、宝石店で良に指輪を買い与え、ペンダントを買い与え、良は北川女史をそそのかして滝から衣装代を貰って買わせた銀狐のコートをまとって、それらのおねだりをしさいに検討した。かれらは互いにいくら一緒にいても足りなかった。  滝が多少弱腰になっているのをいいことに、良は一時二時まで、結城と遊び歩き、あげく彼の家へいき、電話で一方的に、先生に泊めて貰うからと通告して、結城の胸で眠る夜がしだいにふえた。滝が怒ると、いざとなれば結城をふりかざしてやろうという構えで反対にくってかかる。 「大体滝さんぼくのこと子供扱いしてさ。もう十八だよ。いいかげん、人権認めてくれたっていいじゃないか。四六時中見張られてるなんて真平だ。少しは自由にさしてよ。そうでなくたって、マネージャーと同居してるタレントなんて、誰にきいたって、いやしないのに」  滝はぎくりとして、いつものようにきびしく押さえつけることができなかった。以前ならたちまち手が頬にとぶところだが、(遂に恐れていたようになるのか!)という思いである。実際には、面倒くさいこと一切がどうしても厭な良が、ひとりぐらしなどしたがるわけはないのだが、かわって結城がひきとるとでも云い出したら、と思うと滝の目の前が真暗になった。  いっぺん砕けた腰はとかく弱くなる。再び良がそんなことを云い出すのを恐れるあまり、滝はそれとなく押さえつける手をゆるめ、良の心をつなぎとめようと我ながらみじめな譲歩を強いられた。叱責も、いつのまにか、当然のこととしての手荒なとっちめの権威を失い、ただむやみと口うるさく小言を云うような云い方になっている。  すべてがいたちごっこの逆効果なのはわかっていた。だが滝にどうしようがあったろう。彼は罠におちこんでいた。  良の方はいまや彼など眼中にない。結城とレッスンのスタジオで午前をすごし、仕事がおわってから夜を遊びに連れていって貰い、ほどよく疲れて武蔵野の家へ帰ってくる。はじめのうち、結城の家は、いついっても、長髪の若者たちがごろごろしていた。ロックや、ジャズの若い連中の一種の溜り場になっていたのだ。  結城は良に新しい世界へ目を開かせようとし、はじめのうち、みなに良を紹介しては、話に仲間入りさせようと骨折った。しかし、良は世間を知りたいとも、音楽の新しい潮流にふれたいとも、思っていなかった。 「きみは、だめな奴だなあ」  良がいると、何となく座が乗らない。話がはずまず、水と油のようにもたついてしまう。なんどかこころみに失敗してから、結城はひどく悲しそうに云った。 「きみは僕よりずっとあいつらと年が近いんじゃないか。しかも同じ音楽の世界に生きていて──なあ、良、きみはああやってあんなに目の輝いてる連中といて、何も感じないかい? なんで、あんなに貧乏で苦労してるくせに奴らの目があんなにきれいなのか、奴らは何を考えて、どんなことをやろうと思ってるのか、全然知りたいとも思わないのか? ──ああ、思わないんだ、きみは」  結城はもどかしい悲しみをこめて、良を見つめた。座がしらけて、以前ならきっと夜を徹してしゃべりあかし、セッションをし、熱をこめて論じあったはずの若者たちが妙にはずまぬ顔で一人、また一人と帰っていってしまうと、目にみえて良は生き生きしてくる。結城のとなりにきて、その首に手を巻きつけ、接吻をねだり、愛撫を欲しがる。 「きみは、そんなものに何の興味もありゃしないんだね。だが──どうしたら、興味をもたすようにできるのか、僕にもわからん。めくらに色を教えるのと同じだよ。どうやればいいんだろうな──僕は、悲しいんだよ、ジョニー、きみがいつまでたっても、ちっとも僕の夢や、僕の仕事や、僕の友人に目を開いてくれようともしないから」 「だって──ぼく、先生とふたりっきりでいたいんだもの」  良はずるそうにまたたきながら甘ったれた声でいい、結城の頬に頬をすりつけた。結城の顔が歪み、怒っているように荒々しく唇が唇にかさなってくる。良は頭をふって焦らしつづけ、からだをのけぞらし、嬉しそうな悲鳴をあげてソファの上で身悶えする。  その唇を息もとまるほどむさぼってから、結城はふっと憂鬱そうな悩みの芽生えを目にひそめて、近々と良に見入り、そして吐息をついた。 「──仕様のない小悪魔だ」  悲しげな、少し苦々しい声の中に良は自らの勝利のあかしの、惑溺のあらたな段階のひびきを敏感にききとって情人の目をのぞきこんで笑いかける。  そんな夜がたびかさなるにつれて、結城を慕って集まってくる若者たちも、妙に来づらいものを感じるらしく、しだいに数が減り、足が遠のく。それは結城にとってひどく悲しいことであるらしかった。 「きみのせいだぞ」  彼は眉間に深い皺をきざんで、良を責め、良の肩を揺すぶった。 「きみと遊び歩くのに忙しいもんだから、仕事は進まんし、付合いはついつい義理を欠くし、道夫も正之も、鳴海君も清也もどうも来づらいらしい。うちに帰ってきたとき、連中がいるときみは露骨につまんなそうな顔をするしさ。もうじき裕ちゃんのレコードのことでアメリカの、ユニオン・レーベルのプロデューサーも来日する。僕は、やることが、山のようにあるっていうのに、こんなところで、きみといちゃついてるだけでさ──みんな、さぞかし、蔭で僕を笑ってるだろうな」 「そんなみんなの方が、僕より大事なの?」 「──わかったよ、わかってるよ、この悪魔め」  結城は、悲しげな翳が漂うためにいっそう美しくみえる男らしい顔に、ほろ苦い愛情の微笑をうかべて、良の頬をつつき、ぎゅっと耳をひっ張り、頭を小突いた。 「だからきょうだってほんとうは鳴海君がみんな集まって裕ちゃんのデモ・テープをきくからって云ってきたのに、断ったじゃないか。お蔭でわざわざ明日出掛けて僕だけきかなきゃならん。僕なんざかまわんが、僕の都合で吉村君や島岡君に迷惑をかけるんだ。以前の僕ならお詫びにみんな連れてどこかへくりこむのに、どうせ明日もきみのお相手だからな。あああ、英雄の心乱れて麻の如し、か」 「だってぼくは、いつでも先生にぼくのことだけ考えて欲しいんだもの。ぼくとだけいて、ぼくのことだけ考えて、いつも、ぼくを見ていて欲しいんだよ。先生があのロックの人たちと話してると、ぼく、なんだか先生がとられちゃったみたいで悲しいんだもの」 「そんな目で、そんなことを、よくも云えたもんだ」  結城は唸った。 「きみは正真正銘の悪魔だ。さもなきゃ、赤ん坊だ。どっちなんだ? 両方か? そうだろうな……きみは、僕をだんだん世間をせまく、ひとに顔向けもならんような羽目に追いこみたいんだな。だが──そうはいくものか。まだまだきみ如きに白旗をあげてたまるものか。僕は何もきみがすべてじゃない。仕事も夢もつきあいも大事なんだよ、男にはね。きみの憐れなボディガード兼ナイト兼パトロンなんかにされてたまるものか」 「あんなこと云ってらあ」  良は腹を立てて背を向けてしまい、結城がやがて降参して機嫌をとろうとするのにも、拗ねたまま口もきかない。結城は困じはてた顔をつくり、悲しげな目をしてみせ、 「あやまるよ、あやまるからもう機嫌を直してくれよ」  と囁きかけ、唇を求めて来る。良はぎゅっと唇をひき結び、与えまいとし、だんだん結城が躍起になって強引になってくるのへこちらも本気になって山猫のように抵抗し、男の顔を叩き、押さえこもうとするのを足で蹴りあげ、室じゅう逃げまわり、怒ってわめき立てた。先生なんか大嫌いだとわめいて、手当りしだいに暴れまわる。  相手もしだいに昂ぶってきて、さいごには力まかせに組み敷き、哄笑をあびせながら、かみつくように唇を奪う。 「僕が嫌いか?」 「嫌いだよ! 大嫌いだ!」 「そんなことを云って、僕が悲しんでもいいんだね?」 「知るもんか! はなせったら!」 「逃げてみろよ」  結城は意地のわるい顔になって、良の手足を押さえこむ四肢に思いきり力をこめた。良は狂ったようにもがくが、磐石に敷かれているように、どうすることもできない。ますます怒って、良は目を爛々と光らせてにらみつけた。 「はなしてよ! どかないともう先生なんか──!」 「きみなんか何だ。こんなカトンボみたいなからだで、僕の手ひとつふりはなすこともできないんじゃないか。きみをいためつけるのなんか、わけないんだぞ──どうだ、泣かせてやろうか? また、きみのからだをひき裂いて、気絶するようなめにあわせるぞ──暴れたって──泣いたってきかないぞ」 「そんなことしたら二度と先生なんかと口きかないから!」 「見ろ、青くなって──じゃあ降参しろ。僕を困らせないと約束しろ。いい子にして、僕を悲しませないと云いなさい。僕を好きだと云いなさい。こら、云わないのか」 「はなしてったら!」  突然良はおとなしくなり、息も絶えだえな顔を作って、目に涙までためて結城に哀願する。 「お願いだから──重くって、息ができないよ。苦しいよ──足が砕けちゃうよ」 「そんな顔したってだめだ」  結城は怒って云った。 「どいてほしけりゃ、早く云え。降参すると云え。許して下さいと云え。云えったら、云えよ、この小悪魔め!」  しかし良は哀願、泣き落し、脅迫、媚態、あらゆる手管をつかっても決してそれだけは云わない。いつも、さいごに根負けしてしまうのは結城である。 「なんていう強情な小僧だ」  長嘆息して、彼は良を解放し、乗りあげた膝でごりごりと押しつけられて痺れてしまった腿をいたそうにいたわっている良の肩に手をまわしてひき寄せ、唇を求めてくる。良はちょっと手を相手の胸につっぱってあらがおうとするがすぐに力尽きたように素直に男の腕に抱かれた。 「僕がどうしてこんなにきみにいかれちまうことになったか、きみはわかってるかね」  結城がそんな奇妙に愛撫とも争闘ともつかぬ時間のあとで、溜息をつきながら良の髪をまさぐって囁いたことがあった。 「こんなことをきみに云うのはばかなことなんだろうが、なあに、どうせきみはこんなこと承知の上だものね。そりゃ、たしかにきみはきれいだが、きみよりきれいな子だって、正直云って僕は見たこともあるし、抱きもしたよ。なんといったって、世の中は広いんだ。それに、いまはきみのお蔭でいいように|こけ《ヽヽ》にされてるが、もともと僕は、≪痴人の愛≫タイプじゃない。いくらきれいだって、ほんとうなら、きみみたいな我儘で強情で恩知らずで冷酷で物知らずで高慢ちきな、全然いいところのない悪魔みたいな小僧なんか、五メートルの棒のさきだって、さわりたかあないよ。滝さんはいつか僕にきみのことを天使の顔をした悪魔だといっていたが、まったくそのとおりだものね。──ふくれてるんだな。まあきけよ。ただひとつ、僕には、どうにもならん、弱味があるんだ。きみをどんなに憎たらしく思っても、どうにもそれにかかると蛇に見こまれた蛙みたいになっちまうってことがね。それはね──きみは、気がついてるか。きみは、やたらと甘ったれて、僕にかまって貰いたがるくせに、一度だって、自分から僕に接吻したことも、それどころか僕にキスされて積極的に反応をかえしたことさえない。僕を自分から好きだと云ったこともない。いわんやきみが欲情しているというところを見たこともない。そりゃ機械的な反応はあるが、いつでもきみは何だか、いやなことだけど仕方ないから我慢してるという感じなんだ。何も、いたいことや、きみのいやがることでなくて、ただのキスだとか、抱きしめるだけでもそうなんだ。これは、僕は、そんな相手を知ったのははじめてだが、僕をこんなにきみに弱くしちまったのはそこだよ。  やっぱり滝さんだが、きみのことを天性の娼婦だなんて云ってたが、こりゃ、娼婦と正反対のものだ。娼婦ならお愛想で声も出してみせるし、感じたような顔もしてみせる。きみのその仕方なさそうにじっと僕に抱かれてるところは、なんというか、男をふにゃふにゃに参らせちまう。やっぱりおれを慕ってるから何をされても健気に耐えてるんだろう──なんてね。男なんて、ばかなもんじゃないか。でもやっぱりそんなきみを見てると、僕はどうしていいかわからん、もう食っちまいたいほど、いじらしくて、いとおしくて、たまらなくなるよ。やっぱりきみのことだから、もしほんとうにいやで、僕を嫌いでたまらなかったら、そんなにおとなしくはしていないはずだ──こいつも、僕のうぬぼれかもしれないんだけどね」  良は大きな目で結城を見あげて謎めいた生真面目な表情をして、何も云わない。結城はまた吐息を洩らした。 「きみのその目がいけないんだ。──で、なかったら、もうとっくに僕はきみから千キロもはなれたところまでとんで逃げてる。僕のあらゆる理性及び友人は気狂いのようになって僕に忠告、警告、その他をわめきたててるよ。その子からはなれろ、そばにいちゃいけない、きっと破滅しちまう、ろくなことにはならない、一刻も早く熱病からさめろってね。ああ、良──きみと僕に祝福を送ってくれる人よりは、眉をひそめてる人の方がずっと多いんだよ。滝さんは別としたって、中村の滋さんにも、作家の三田さんにも、ザ・イマジネーションのリーダーの道夫にも、バン・マスの大石さんにも、僕は忠告されてるんだぜ。きみは怖い、毒だ、はやく逃げろ──僕自身の愛する理性も云ってるよ、こいつがお前の命とりになるぞってね。僕のこいつはめったにまちがったことはないんだ。だのに──だのに僕は、我ながらめちゃくちゃだと思うんだが、そのきみの氷の王女みたいなところに鼻の下をのばし、そのくせ一方では、なんとかしてきみの方から僕に接吻させるように、きみが僕を好きだと自分から告白するように、きみを降参させてやろうと意地になっちまってさ……こうなっちゃ、男もおしまいだ。まるっきり、首ったけ、事態はわるくなる一方──どうだい、きみは、僕の首を切りとって戦利品の棚に並べたいんだろう。たしかに、自慢するがいいや、僕は、きみからはなれられやしないよ。だが──云っとくが、まだ絶対、参りはしないからな。まだ本土決戦という手が残ってるんだ。あまり、安心しなさんなよ。万が一僕がきみとの戦争に逆転満塁ホーマーにでも成功したりしたら、そのときには、いまのつけをそれこそとことん、とりたててやるからな」  良は相変らず、何も云わないで、結城を見つめ、おし殺したような笑い声を立てて彼の手から逃れようとする。結城の手がゆるやかに良をひき寄せ、逞しいからだの下に巻きこみ、ほっそりした少年のからだと筋肉がみごとに盛りあがった成熟した男の裸像とがもつれあい、結局どんな囁きも、争いも、拮抗も、さいごには甘やかな愛撫の夜の中へ溶けこんでしまうのだった。  結城はなるべく、良を苦しめたり、傷つけたりしてはとおもんばかって自らをおさえていたが、それでもかなりひんぱんに、良に哀願したり、なだめすかしたりして、 「きみが欲しいんだよ」  と囁いた。 「いい子だから──そっとするから……いいか?」  しかし、たちまち良は怯えてしまい、憐れなようすになって、許しを乞うて必死に逃げまどった。良の心には、その苦痛に対する恐怖が深くきざみつけられてしまっていて、決して馴れようとしなかった。それにしだいに深まる結城の惑溺に自信を持ち出して、我儘をつのらせている。  結城は我にもあらずあれを買うから、あそこに連れてゆくから、ともので釣ろうとさえするようになったが、ちょっとひかれたようすを見せても、いざ彼を受け入れる段になるとあまり良が大袈裟に騒ぎたてて泣きわめくので、たいてい結城の方が鼻白んでしまった。 「その憐れな顔だってみんなきみのずるい計算だってことはわかってるんだが」  彼は苛々して良をねめつけた。 「あんまり可哀そうなようすをしやがるから、こっちがとんでもないサディストだって気がしてきて、気がとがめてどうにもならん。こんなことで、きみを飼い馴らすわけにいかないのはわかってるんだが」  結城はこのごろしきりに見せるようになった悩ましげな表情で、良をにらみつけ、叱るように云う。 「大体、強情をはって絶対馴れようとしないから、いつまでたってもいたい思いをしなくちゃならんし、いたいもんだから馴れようとしないんだろう。困った悪循環だよ。思いきって、荒療治で馴らしてやろうと思っても、こっちもつい卑怯な気持を起こして、嫌われたら一巻のおわりだと思うからなあ。糞っ、まったく、きみでさえなけりゃ、たかが小僧ひとりぐらいに、こんな手間なんか、絶対にかけやしないんだが」  良は結城をにらみかえして、小生意気な調子で口答えをした。 「先生でなきゃ、たかが晩飯や指輪ぐらいで、こんなに大人しくしてるもんか」 「なんだと?──わるい小僧だな、なんて、性根がねじけてるんだ」  また、結城は嘆息だった。彼はこのごろ溜息ばかりしか出やしない、とぼやき、きみのせいだ、と云い、そのうちにきみにとり殺されちまうだろうと断言した。 「きみは僕から要求はしほうだい、世間はせまくさせるわ、義理は欠かせるわ、友人と気まずくさせるわ、それだけいいようにとっておいて、そのかわりにそのからだひとつ、自由にさせもしないんだからな。揚句にその云いぐさだ。あーあ……どうぞ、ご自由に、だ。何が欲しいんだい? 僕を、霞ヶ関ビルからとびおりさせたいかね? 銀行強盗をさせたいかね? きみなら、なんでも、さいごには云うことをきかせちまうだろうよ。まったく、|宿命の女《フアム・フアタール》だな」  良は警戒したような顔で黙りこんでしまい、油断なく彼をうかがっているだけである。結城はたしかに魅入られているのかもしれなかった。  だが良には、いくら結城の惑溺をむさぼってもたしかめても、これでいいということは決してないのだった。良は、さいげんなく愛を欲しがり、あとからあとから底なしに呑みこんでしまう、貪欲な幼児のようだった。その気まぐれな魂は、結城が魅せられた餌食と化してゆけばゆくほど、遺憾なくその魔力の網を投げかけて彼をからめとった。  よくよく結城に云うことをきかせたいときには、もちろんいざとなれば逃げの一手で助かろうとすることはわかっているくせに、からだで彼を釣ろうとすらこころみた。結城の、自分以外のすべてのものへの関心と興味に良は嫉妬した。彼のありあまる、陽光のような情熱は残らず自分に向けられていなければ気が済まなかったのだ。  結城が良に対するのと同じぐらい、彼の仕事や夢や音楽に情熱を注いでいるのを知れば知るほど、やっきになって、良は結城にこちらを向かせ、そしてそのままでいさせようとした。  若い仲間たちを遠ざけ、仕事で出かけるのを少なくさせ、ピアノに向かう結城を、それが良自身の新曲を作曲しようとしているのだと百も承知の上で、結城の哀願にも、叱責にも、怒りにもいさいかまわず、やめさせようとあらゆる手管を尽し、キイを走る手を追いかけてつかまえて、口にもっていってきつく歯を立て、楽譜を隠してしまい、目隠しをし、遊びに行こうとねだり、拗ね、獰猛な肉食獣のように彼にまとわりついた。  しまいに結城がかんかんに怒ってしまって、ひっぱたくぞとか、縛りあげて閉じこめてしまうぞと脅しはじめると、涙ぐみ、叱られた子供のように泣きはじめ、ついに結城を根負けさせてしまう。 「おい、五線紙をどこへやったんだ──かえせよ」 「とれるもんなら、とってみろ──だ」  楽譜をひらひらさせて逃げまわる良にふれてしまったら、結城の負けで、乱暴な取っ組みあいがいちゃつきあいに、接吻に、ならずにおわってしまうことは決してなかった。  良のなかの狂暴な、貪欲なものは、それでも満足しない。結城の悩ましげな目を見ても、ほんとうに困惑し苦しみはじめていると知らされても、もはや良自身にすら制御はきかなくなっているように、良は獰猛に結城の心をむさぼり、手に負えなかった。  結城はたびたび良を、僕のアルフレッド・ダグラスだとののしり、ひどいめにあわせてやると脅し、きみから逃げ出すべき時なんだと断言した。 「ダグラスは結局オスカー・ワイルドが男色の罪で牢屋にぶちこまれるなり、けろりとして彼を忘れちまい、彼の手紙まで雑誌に売って飲んじまうんだ。僕は、いやだよ、僕はワイルドみたいに、恨みつらみを並べ立てた『獄中記』なんか書かされたか、ないぞ」  良はおもしろい冗談のようにくすくす笑うばかりで、いっこうに彼の心中を察してやろうなどとはしなかった。とうとう、良の我儘が極限に達して、レコーディングの面倒をみてやっているニューロックの白崎裕との打合せに、アトリエに泊まった良を送り届けてから出かけるというのをいやだと駄々をこねはじめたときには、さすがの結城も顔色を変えて怒った。 「きみは、僕に仕事をすてろというつもりか。図に乗るのも、たいがいにしろ。いったい、どこまで甘やかされたら気が済むというんだ! 僕は滝さんじゃないからきみに手をあげたりせんように気をつけてるが、きみが僕の半分しかないような痩せっぽちでなかったら、殴り倒すところだぞ──そこまでは、いくらきみだって、許さん!」  たちまち良も顔色を変えて、何が何でも云うことをきかせなければおさまらない権幕になった。 「電話して断りゃいいじゃないか、ぼくと一緒にいてくれなきゃ、いやだ! ぼくのことだけ考えてくれるんでなきゃ、いやだ。ぼくは夜までひまなのに、ぼくをおいてきぼりにして、そんなつまらない用で出かけるのいやだよ、ぼく!」 「良! 男の仕事ってものは、ましてこうやって僕の信念のためにやってる仕事が恋人の気まぐれで、電話一本でやめました、はいそうですかでとおると思うのか。裕はこんどのレコーディングに生命を賭けてるんだぞ」 「それでとおらなきゃやめちゃえばいいじゃないか! どうして、ぼくよりほかの人のために仕事するの! ぼくだけの先生でいてくれなきゃいやだ、ぼくには先生しかいないのに!」 「だめだ、良、それだけはだめだ」 「これ一回でいいの! ぼくに、ぼくのことどのぐらい可愛いと思ってくれてるか見せてくれれば、それっきりもう無茶なんか云わない。今日ぼくのことおいてっちまうんなら、もう先生なんか知らない、もうこれっきりだから!」 「良、お前は、どこまで僕を苦しめるんだ!」  いきなり、結城の大きな手が頬にとんだ。はじめてのことである。一撃で、良は悲鳴をあげて壁ぎわまで吹っとんで、頭を打ちつけた。真青になってくずおれてしまった良を見て、こんどは結城が狼狽した。歯が当って口の中が切れていた。  結城は茫然と立ち尽していたが、やにわに、打たれたように良の上にくずおれて、良を抱きしめた。結城の目に涙が光っていた。 「二度とそれを云うなよ、良」  結城はしゃがれた声で囁いた。 「他のどんなことを僕の攻略に使ってもかまわん。だが、それだけは云うな。こんどそれを云ったら、僕は、きみをその場で絞め殺す。本気だよ、良、わかるか」 「先生……」 「僕がきみに惚れてるのは、冗談ごとじゃないんだぞ。本気で惚れてる男に向かって、別れ話で脅すなんていうのは、まともな人間のしちゃならないことの第一だ。きみだって本気じゃなかったんだろう。そうだな? そうだと云え」 「嘘──だってば。先生、そんなことぼくが──ごめんなさい。嘘だったんだよ」 「良!」  結城は憑かれたように良を抱きしめた。それはたしかに、あとでこっそり良が勝利のスコアにつけたように、彼の惑溺がまた段がついて深まった瞬間だったのだ。 「もう、僕は、きみと別れられやしないんだぞ。そうさせたのはきみなんだ──だが、もういい、仲直りしよう。いまきみは、はじめて素直にあやまったな。甘いんだろうが、僕は泣きたいくらい、嬉しいよ。僕からはなれないな?」 「うん」 「二度とそれは云わないね?」 「云わない」 「よし。じゃ、仕方ない、今日はきみの駄々に敗けてやる。もう二度とこんな我儘は云わさないよ。このままじゃ僕はアントニーになっちまう──今日だけだぞ。だが、そのかわり……って云ったら、どうする?」  結城がずるそうに目もとに笑い皺を寄せて、ざまあ見ろという口ぶりで云った。良はびくりと身をちぢめ、罠にかかった獣の表情で黙りこんだが、やがて、仕方ないと観念して、怯えた目で結城を見つめた。どうせ、いざとなれば泣きわめけば済む、という肚もあったのだ。結城はにやりとして、その目に唇を押しつけた。 「ようし」  彼は云った。 「なら、許してやる。きょうは、泣いてもきかんぞ──僕だって頭に来てるんだからな。まったく、傾城、傾国とはきみのような奴のことだよ──ここに来い」  結城はソファにかけていた。びくびくして良が近づくと、その手をつかんでひき寄せ、膝に腰かけさせた。彼のたくみな手が素早くジーンズをひきおろした。 「心配しなくていい、やさしくしてやるから。どうせ、僕はもう、憐れなきみのとりこなんだからな──そう……そっと、こうしてごらん」  結城はうしろざまに抱きかかえたまま、侵入しようとした。良は泣き声をあげて立ちあがろうとしたが、結城は意地になったようにしっかりと手をまわして押さえつけていた。が、少しすると、彼は深い息をついて圧力を加えるのをやめた。 「だめだ」  彼は云い、放免されたかとほっとしかかった少年の脇の下と膝の下に腕をまわして、軽々とかえあげた。寝室へ連れていって、どさりとおろす。 「ちゃんと準備して、それでもだめかどうか、ためしてみよう」  彼はベッドサイドのテーブルの、コールド・クリームの瓶に手をのばしながら囁いた。 「いいかげん、きみのからだだけでも、好きなようにさせてくれなくては、僕は発狂ものだ。焦らすったけ、焦らされて、さ──そうでなくたって、きみみたいに云うことをきかない、思いどおりにならん小僧なんて見たことがないくらいだものな。いっそのこと、僕がマゾヒストででもあればよかった──かね。だが生憎、僕はどの友人からもたいへんな亭主関白になると太鼓判を押されたもんだ」  用意を済ませると、彼は再び少年に受け入れる体勢をとらせた。こんどは、彼は、いたってやさしく良を扱った。 「僕は平和主義者だし、きみの小言幸兵衛のマネージャーに殺されるのもごめんだ。もう、怪我なんかさせないように気をつけるから、そんなに震えてなくたっていいんだよ、坊や」  潤滑の薬でいくらか侵入はたやすくされていたが、それもごくはじめのうちだけだった。ゆっくりと結城がからだをすすめると良は呻き声をあげてからだをそりかえらせた。顔から血の気がひき、吐き気をこらえようとするように、激しくひきつったような喘ぎを洩らした。 「いたい?──我慢できるね?……この前より、辛くないだろう」  力づけるように良の肩を握りしめながら、結城がやさしく囁いたが、良はきつくつぶった瞼のあいだから涙をにじませて、返事もできなかった。動いたらからだがつき破られて、はりさけてしまうのを恐れるように、必死に全身を硬直させて、むせぶような呼吸をつづけている良を、結城はいたいたしげに見つめた。 「ごめん──きみをひどい目にあわせてるか? 可愛いよ──このきみだけだ……ほんとうに、完全に僕のもので、僕が支配しているのは……あとは、僕が奴隷だ。僕の敗色、濃厚だな──だからもうかまわない──きみが好きだ。愛している──本気だよ。死んだっていい……僕から、はなれるな。僕も、はなしはしないよ──誰にも、ふれさせない……」  良は力なく喘いだ。だんだん、いたみが耐えがたくつきあげてきて、もう我慢できない、と思った瞬間に、結城がぐっと腰をひいた。良のからだから力が抜けたが、次の瞬間再び結城は激しく押し入ってきた。良は悲鳴をあげた。  結城はゆっくりと良を見つめながらからだを動かした。良は夢中になって、責苦を逃れようと彼の肩にしがみつき、やめてくれと哀願した。 「お願い──動かさないで……死んじゃうよ!」  結城は素直に動きをとめ、静かに良の奥深く押し入ったまま、唇をかさねた。彼は真剣な、悩ましげな目で良を見つめた。 「きみを苛めるつもりはないんだよ」  彼はいくぶん悲しそうに呟いた。それはほとんど弁解めいてきこえた。 「きみが欲しいだけだ──どうしていいか、わからん。僕にどうしろというんだ……いつだって、きみのことだけだよ。きみのことしか考えていない──いつだって、こうやってきみとひとつになっていたい──きみに夢中だ。きみの思っている百倍も千倍も、きみに夢中なんだ、わかるか……」  良はきつく目を閉じたまま、咽喉が裂けるほど喘いでいた。結城のことばを何ひとつ理解したとも思えない。結城の顔が歪んだ。惑溺の苦悩と甘さを同時に味わいつくして、彼は、良に残酷にふるまってそのきゃしゃなからだに苦痛を与えるにも忍びず、といって彼をきつくしめつけてくる激しい快楽を思いきる気にもなれずに、ただじっと良のなかに身を埋めて潮のさすようにたかまりが押し寄せてくるのを待っていた。  良が啜り泣くように喘ぎ、すぐそれは耐えかねた低い嗚咽に変っていった。結城はきびしい表情にさながら愛と惑溺を結晶させて、じっと良を抱きしめていた。 [#改ページ]     24  二月に、『甘い関係』が良の五枚目のミリオン・セラーになり、結城がミュージカル・プロデューサーをつとめた二枚目のLPも評判は上々だった。三月に、新曲『ラブ・シャッフル』の吹きこみ、初のハワイ公演、結城のすすめで、バック・バンドの結成──忙しい日が流れた。滝と良の間柄は表面上、すっかりもとの平穏を取り戻したようだった。  良も落着いてきた。三年目を迎えて、あげつづけてきた実績と、定着したとみていい人気とが、良に自信を与えたのだろう。態度にまで、スターの風格としか云えぬ華やいだのびやかさが常にともなうようになり、仕事となれば我儘もそうは出さずに滝の云うことをきいた。  そのかわり私生活での暴君ぶりはいっこうにあらたまらないが、それも結城という、頭を押さえる人間がいれば、まわりがいたたまれなくなるほどでもない。  滝はもう良にとってはまるきり、ただのうるさがたの、オールドミスの舎監、といった存在にしか感じられてはいないようだった。いつもいつも角つきあっているわけではなく、たまに機嫌がいいとにこにこして相手になったり、以前のように甘えかかることさえあるが、それはいってみればまったく関心の欠如した愛想のよさだった。  それに対して、いま良の心を大きく占めているのは疑いもなく結城ただひとりである。結城が室に入ってくると良の顔に灯がともる。結城が良を残して立ち去ると、目から光が消え、露骨につまらなそうな、生気を失った表情になる。  そうしたことすべてに対する、滝の心のいたみが、そう易々とひと月、ふた月で消えようはずもなかった。良にとっては常に現在形しかない、ということは、すでに滝の心を食い破ってしみこんでいる。  良は滝ががみがみ云い、時間だ、リハーサルだ、仕事だ、門限だ、と小言を云っては自分を追いまくる、うるさくて面倒くさい監視係兼進行係、まるで年寄りの伯母さんといったようにあしらったが、彼が自分と結城の楽しい甘い時間を邪魔するのだ、と思ったり、滝があやうく手をあげようとするときなど、彼を見かえす目には冷たくて無表情な、憎悪と云っていいきらめきがあらわれた。  滝がおとなしくして、あまり気にさわらぬようにしていれば、そうわるい人間でもないのだが、という扱いである。それは滝を煩悶させたが、滝の自棄な勇気はもう、すっかり砕けてしまっていた。  良を殺そうとして、はたせなかったときから、すでに滝は自らをそうするしかないように、追いこんでしまったのだとも云える。たえまない、自己嫌悪と憤懣に交互に責めつけられながらの、じりじりと侵略されてゆく長い妥協の道のりが、すでにはじまっていた。もう良に手をあげても、それを打ちおろすだけの勇気がなかったし、その次には良にむかって手をふりあげる勇気も失われた。良の手におえない我儘と不平ぐせと時間を守らないことに、たえず滝はがみがみ怒鳴っていたが、それもどうやら馬の耳にふきこむ念仏に化しつつあるようだった。  そのうちにがみがみ云ってうるさがられるのも、嫌われてはと気が気でなくなるのだろう、そうしたら、あとはただ這いずりまわって尻尾をふるだけさ、と滝は自嘲ぎみに考えていた。彼の煩悶はサングラスと穏やかな物腰のうしろにすべて押しこめられ、しだいに内側で醗酵していた。  だがそれでも、彼は良を失うわけにはいかないのだ。良も、彼がいなければ、育ての親というだけでなく、これからさき、スター今西良の存在は成立していかないのをよく心得ているはずだ。いまとなっては、かれらの絆はそんなにももろい一点にかかっているにすぎない。 (良が、もうこれだけの人気スターであるからには、なにも滝俊介でないマネージャーだって、これを維持してゆくことはできる──なぞと思いはじめてしまったら)  ──そのときが、おわりだ。滝の感じでは、全世界の終焉である。彼は、良なしでは、仕事どころか、生きてさえゆけないだろう。だが良は、いつ、滝はもう必要でない、と決めるかわかったものではないのだ。彼の愛する美神はそういう少年であった。  デビュー以来、ありたけの貢ぎ物と献身をささげ、反逆などさいごの一瞬まで考えもしなかった山下に対する良のしうちを、彼は胸に刻みこんでいた。事実上、良には、情愛という資質がないようだ。いくら彼を好いていなかったにせよ、さいごの不幸な別れかたに残っていた肉を犬に投げてやるような好意のひとかけらさえ失ってしまったにせよ、あれだけ尽した山下と別れて一瞬のちには、良のすべての記憶から、山下の全存在は消滅してしまったようだった。そのあとの山下の消息を滝が話してみても、つまらなそうな顔をするだけだ。気まずくて、話をそらしてしまうというのですらない。いかなる興味も死んでしまっているのだった。  これが、良の心からしめだされるということの実相なのだ、と滝はとことん知らされていた。そのぐらいなら、まだ良に憎まれていた方がいい。うるさがられている、だけでもいい。良の世界から追放されることだけはできない。それだけはできない。それだけのために、滝は、日夜彼の自尊心をけずり減らしつづけながら妥協しているようなものだった。  そうして、どうしようもない敗軍の将になりさがってゆくにつれて、このごろ滝はしみじみと昨日と、明日とのはざまにおちこんでいる無力な自分というものを思いかえすことがある。良の心を得て、良のためにほとばしるように生きているとき、良との激しい戦いとしかいいようのない葛藤の渦中にあるとき、つまりはどんなにであれたしかに良と共に生きているときには夢にも思わなかった、またそんなことは軽蔑してもいれば、自分がしようとも思わなかったような、感傷的な感慨ばかりが、やたらと滝をとらえるのだった。  良は、このごろ、まったく滝を見つめない。滝に対して大半の関心を失っていることが、そのしぐさにもあらわれて、ことごとく、サングラスに隠されたマネージャーの心中を読みとるために目をあげるようなことはほとんどない。それで、彼の方は、サングラスのおかげでけどられる気づかいもなく、手のあいだからすりぬけかけている愛しい珠玉を見つめる男の目で、しみじみと良を見守るのだった。  良と生きるようになって、三年になるとは、と彼は思うのである。早いものだ。かつての彼は、四季のうつるのさえ気づいているひまはなかった。ありったけの力で、エンジンを全開にして、生きている人間は、自らが時の流れの中で生きていることなど、気づきさえしないのだ。  彼は良に賭けた。そして、良を作りあげた。この良は、(ジョニー!)(ジョニー!)という少女たちの絶叫につつまれて、光につつまれて歌うアイドル・スターは、彼の作品、彼のものだ。彼のものなのだ。結城でさえ、彼から過去は、奪うわけにゆくまい。  |あの《ヽヽ》良、と滝は切なくこがれ求めていた。めぐりあいの日の、痩せっぽちの野良猫。目の大きな、どこかに飢えたような悲しさの漂うすてられた仔猫そっくりのリーゼント・スタイルの不良少年。親指をかみながら、不安そうに彼を見かえしたまなざし。 「あんた──何か用なのかよ」  ほんとうに怯えはじめながら口をとがらせて云いかえした、反抗的な、十七になってひと月もたっていなかった──あの、良。あるいはまた、山下に弄ばれようとして、仰天して彼をつきとばし、逃げ出した良。さがしに行った滝を、見あげた目が、まだ昨日のようだ。あのころから、滝を見るとき、ぐっと眉をあげ──いまやっている、結城のまねの、冷笑的に半目に見開いてつりあげる眉のあげかたではない、額にくっきりしたしわを寄せ、目をひどく大きく見開き、相手を当惑させるほどまっすぐに、ひたむきな無表情とでもいうべき目でのぞきこむくせが目についていた。  いまの良は滝を正面から見ようとさえしない。だがあのとき、寒い川べりの堤防にすわりこみ、冷えきったからだで、良はなんと子供に、たよりなく、淋しげに見えたことだろう。そして良は大きな目で滝を見あげ、おれと戻るかという滝に妙にがんぜない子供のようにこっくりとうなずいた。  その良を、連れ戻したその晩に、おれは犯したのだ、と滝は思った。必死で抵抗するのを、滅茶苦茶に殴りつけ、むごたらしく犯し、傷つけたあとで、彼の腕の中で、彼を憎むというよりはむしろ茫然としていた、打ちのめされた良。あの目は、おれを見ていた、と滝は胸をえぐられるように思った。  あの目は、おれを憎むと云いはした。しかし、それゆえにこそおれだけを、他の連中と切りはなして見つめている目だった。いまの良の、彼があまりきつく小言を云いつのるときの冷えきった憎悪の目とは、それは何とちがっている憎しみだっただろう。  いま、良の目は、疥癬やみの犬でも見るように、うんざりしきったように、白い冷ややかな憎しみでもってちらりときらめく。だがあの良の目は、愛の青ざめた姉妹であるような憎しみ、氷ではなくて火にほかならぬ憎しみで彼を見ていた。  おれはなぜわかっていなかったのだろう、と滝は思った。良は、愛に飢えて飢えきって、ただのやさしさなどではとうていぬくもり得ないほど、からだの芯まで冷えきっていた子供だった。その良をあたためたのは、火だった。  その何も知らぬからだをひき裂いて、力まかせに打ちこまれた楔が、良にとっては、生まれてはじめての、かれを傷つけるほどにも激しい、他人の良への関心、それ自体だったのだ。啜り泣き、血を流し、その苦痛を死ぬほど恐れながらでさえ、ふつうの子供たちには無償でふんだんに与えられる愛のかわりにその滝の残酷な関心にすがりつくしかなかった良を、どうして、憐れに思ってやることができなかったのだろう。  良は、滝についてくるしかなかった。家も、親も、友もない少年だった。ほとんど滝と会う以前のことを話したがらなかった良からではなく、たまたま知った良の同級生から、良が家を出てすぐ死んだ良の母親のお話にならない無軌道ぶりをきかされた。良と、性格的に同じものを持っている女性だとしたら、その素行は容易に想像がつくというものだ。  それは、淫奔といっては必ずしも正しくない。むしろそんな性格は、憐れまれるべき弱さといっていいのだろう。よい夫、強烈な指導者、力強い保護者、がいさえすれば、何の問題にもならぬような要素である。だが良の父親は良が生まれてまもなく死んだ。意志とか、節操というものを置き忘れてきた良の母親が、同じ商店街の中の大きな薬局のおやじと関係を持ったのが、良の父の死の五カ月後だったというのだ。そのあとはわかっていた。自分を求める男の拒み方を知らぬ女のまわりに、卑しい男、げすな男、ずるい男がむらがっただけだ。 「ひどい話で──町内で、共同便所って呼ばれてたんですからね。あの子なにしろ可愛いでしょう。中学ん時、上級生が追いかけまわして、相手させようとしたわけ。ひどい話ですよ。あの子にあれこれさせようとして、良ちゃんが気狂いみたいになって暴れたら、共同便所の子供のくせに気取るなって、云ったっていうんだから。共同便所の子なら似たようなもんだってね。あの子それっきり学校来なくなってね──ワルぶって、バイク乗りまわしたりしてても、いつも、かげでそれ云われてるって強迫観念が取れなかったんだろうな。それきり二度と誰とも友だちにならなかったからね」  その良を、この腕の中に守って、少しは幸福でいさせてやれたのが、わずか数カ月にすぎなかった、と思うと、滝は泣きたいほど、悲しかった。わずか一瞬の、彼のくだらぬ自尊心と意地のために、彼は、これほどの罰を受け、いま結城の力強い手の中で守られ、大切にされ、しっかりと庇護されている生気に満ちた良を、あのことさえなかったら、いまのいま、ああして良の目にほほえみかけて良の顔を輝かせ、良の乱暴な甘えかかる我儘を受けとめ、良の心を自由に手綱をひきしめているのは彼自身だったのだ、と思いながらただ二人を見ているばかりなのだ。  おれがばかだったとしても、おれの罪だとしても、いったい、いつまでこんな罰を受けねばならないのだろう、と滝はふしぎに思った。こんな、苦痛な状態がこれほど長くつづくなんて、不当だ、ひどすぎる、という、彼らしくもない思いが彼にとりついていた。歯痛に悩まされる人間が、その彼にとっては永遠としか思えない疼痛の時間の中で、ただ頭の中はその歯のことしか考えられぬように、彼は、こんなことはまちがっている、こんな良との関係を強いられるなんて、それは不当だ、ということしか考えられなかった。  良はもはや彼を見ない。いつも、滝の視線の先で、良は結城といる、結城に寄りそわれ、結城にまかせきったようすで、のびのびと、彼のことなど夢にも思いもせぬように笑っている。そうでないときには、結城のことを考え、結城を待っている。それが、滝にはわかる。  良は結城の、太陽のような輝きをいっぱいに浴び、むさぼり、生かされて、つつまれていた。良を見つめる結城の目の中に、しだいに、甘い愛の苦しみが宿り、翳が濃くなりまさってゆくのを見ても、滝の心は晴れなかった。  たとえ結城が苦しんでいても、彼は山下や、そのたぐいの連中とは雲泥の差がある。良を生かしているのは、結城なのだ。それは、良を知り尽し、愛し抜いて、見つめ抜いていればこそ滝にははっきりとわかっている。  良は愛を吸いとり、それをむさぼっていよいよ美しさを増す鉢植の花である。有毒な、妖しい食肉の花であるにせよ、良は、見つめ、見守り、庇護し、支え、かれを生きさせる力強い太陽をたしかに必要としていた。それが与えられるべきときにどうしても与えて貰えなかったために、良の中の魔の深淵は、そうした陽光をむさぼりつくすことだけを知って、満たされることも、我からひとに与えることも知らない。結城はそんな良の魔力にとらえられているのだし、また、そんな良のために吸いつくされて破滅してしまわぬだけの男だ、という自負もあるのだろう。  結城は、おれなどよりどれだけ良にふさわしいかしれない、と滝は思った。どこからどこまで、互いにひきつけられてはなれなくなるしかない二人なのだ。互いのために生まれてきたような二人、というのはたしかに存在している。  だが、だからといって滝は良を失うわけにはいかない。いかないのだ。彼が場末の汚ないジャズ喫茶で、あの痩せた少年と出会わなかったら、いまの良もなく、結城の愛の中でまどろむ良もなかった。  良のすべてを生み出し、作りあげたのは滝だった。現在を失っているからこそ、思いは、良と、彼だけだった、ふたりきりだった昨日へ向う。昨日の夢をうつうつと追う思いのつづきは、どうなるとも知れぬ、おそらくは凶兆ばかりにいろどられた明日への思いにのめりこんでゆく。  滝の目は、じっと、良を追っていた。この二月で、良は十九になった。肌のきめこまかさも、筋肉のつかない肢体のしなやかさも、おそらく天性のものであると同時にまだいかにも少年のそれではある。長い睫毛、紅い唇、薄化粧にピアス、指輪、ネックレス、ブレスレットのきらめく舞台の上の姿はユダヤの王ヘロデをして「あの女を殺せ!」と呻かせた、伝統の妖姫さながらに冷艶で輝かしい。  この春には、有名な写真家の朽木信一郎からどうしてもと懇望されて、大判百ページの豪華な写真集の被写体となった。「写真集・ジョニーの肖像」と題されたその本におさめられたたくさんの写真は、舞台の上、ライトのハレーションの中、楽屋、プライヴェート、とあらゆる角度からこの少年の魅力をとらえ、滝をひそかにいたたまれぬ嫉妬にすらかり立てたが、特に滝がくいいるように見入ったきりしばらく目をはなすことができなかったのは、特に朽木が力作だと自分で云った三枚だった。  一枚は、朽木のフォト・スタジオの、真白い光があふれる中に、ジーンズに上半身は裸で片膝を立て、片膝を横に開いてすわりこみ、膝の上に支えた右手の拳をかんでいる、うつろな表情の良、もう一枚はステージで、両手をまっすぐ上にのばしてマイクをつかみ、踊りまわっていたあいだなのだろう、片脚をかるく曲げて、つまさき立ちになり、目を閉じて顔をのけぞらせた良だ。胸や肩のすけてみえるオーガンジーを、ただぐるぐるまきつけた舞台衣装を白のパンタロンの上にして、手首や咽喉に重たいアクセサリーをつけているために、光を浴びて、まるで良は両手首を縛されてさらしものにされている、殉教者の絵のように見えた。サン・セバスチャンだ、と滝はぎくりとして思ったのだ。  さいごの一枚は、顎を胸にひきつけて、上目づかいに何を見るでもない視線を宙にむけている大写しだった。再び爬虫類の美しくもおぞましい姿を目のあたりにした蠱惑に満ちた戦慄が滝の心を満たし、彼は息さえ詰めながら、狂っている、と思ったのだ。 (気狂いの目だ)  異様にくっきりと鮮やかな瞳と白眼との対比が、思わず滝にそんな感じを抱かせたのかもしれなかった。だがそのとき滝の心をかすめたのは、父のちがう良の妹のことである。妹は、生まれながらの重度の障害児で、口もきけず、襁褓もとれぬまま国の施設にいた。生まれつき情愛のうすい良は、妹のことを一度も見舞ったこともなく、もしかしたらその存在も忘れているのかもしれない。  五つちがいの妹は、母親の、一日に三人の男を送り迎えするような生活がはじまってから生まれたのだったから、五十パーセントは、父方の血筋と思っていいわけだったが、たしかに残りの五十パーセント、その血は良にも伝わっている、可能性が残っているわけである。そうでなくても良の性格を見て思っていたこと──たぶん、良のなかには狂気がひそんでいるのだという思いを、それははっきりとうらづける写真だった。だがそれは、滝の知っているかぎりの、どんな女よりも美しく、妖しくもあった。 (美しい良──お前は、美しすぎる)  で、なかったら、彼ももっと落着いて、自らのおかれている位置に目をそそぎ、諦めなり、身をひくなり、手段を考えることができただろう。だが、良は、美しすぎた。良は、滝にとっては、完璧な美神だった。おそらくは、その冷やかな拒否もまたひとつの原因で。  彼は、機を見て行動し、賭けたり、身をしりぞけたりすることはできた。彼は自らをギャンブラーと思っていたしまたたいてい勝つのだった。しかしいまになって、思いがけない自分の性格に彼は気づかされた。  彼が賭けにきまって勝つのは、結果に執着するというよりは賭けることを楽しんでいたからであったし、そして、正確に、みごとに進退できたのは、彼が常に勝っていたからだった。  はじめて執着して、それに敗色濃厚であると知らされたとたんに、彼は、何が何でも諦めることなどはできない性格だったと知らされたのである。彼は結城に良を渡してひきさがることなど、死んでもできなかった。良はおれのものじゃないか、という想念が狂おしく彼の心にとりついていた。  結城になってから三枚目のシングル『ラブ・シャッフル』が発売になったころから、滝と結城のひそかなはりつめた拮抗は、しだいに緊張の度を増しつづけている。結城は良が朽木信一郎のモデルになるのも、はっきりと反対した。だけでなく、『ラブ・シャッフル』は、結城の云いまわしを借りれば、「フェリックス・パパラルディのプロデュースと云ってもとおる」、エレキ・ギターのワウワウ・ペダルを使った間奏の入る完全なロック・ナンバーだった。 「僕はいわゆるエイト・ビートのカーペンターズ調のサウンドは価値を認めん。ジョニーは、ドラマティックな曲に向いてると思う。いいかね、滝さん、世の中そういつまでも、歌謡祭に歌番組にカワイコちゃん歌手全盛じゃいないよ。僕はジョニーを、ほんもののステージ・シンガーに育ててやる」  良に専属のバンドをつけようと云い出して、そのメンバーをあつめてきたのも結城だった。結城は良をロック・シーンの方へひっぱってゆくつもりである。それは滝のつもりとはまっこうから対立していた。 「そりゃ、私は|単なる《ヽヽヽ》マネージで、つまり興行師《ヽヽヽ》にすぎませんからな」  滝は笑いながら手きびしい皮肉を云ったが、結城は肩をすくめただけだった。その端正な顔にたしかに勝者の余裕に似たものを見て、滝は逆上せぬために必死に自らをおさえねばならなかった。 「どうしてか、わからんね。あなたほどのさきの見える人がさ──ジョニーは来年成人式じゃないか。柄で救われてるとはいえ、あと、さよう四年もすりゃ、いいかげんとうもたつだろう。もっと若い、きれいなライバルが気まぐれな女の子の心をさらわんもんでもない。あなたはいくらでも見ているはずだよ」 「先生は、ほんとうに、そう思われますかね。つまり、良の売り方を変えるべきで、さもないといまの人気を持ちつづけられないと?」 「こういうことは滝さんの方が詳しいんじゃないの。例のご三家を、見てるだろうに」 「失礼だが、連中と良はちがいますよ。まさみ、裕樹、二郎は、あれはもともときれいでもなけりゃ、歌もうまくない。それぞれにいいところはありますがね──要するにミーハー娘にキャーキャー云わせて、それだけのこと。あそこどまりじゃありませんか。こんなこといっちゃ何ですけれども、良はあんな手合いとはわけがちがいますよ」 「そりゃ、比べ物にはならんが、それにしたって本格派シンガーとして幅の広い支持のあるタイプじゃない、熱狂的ファンに支えられたアイドル歌手だよ」 「妙ですな。私は良に幅広い支持を得させて正木きよしタイプの衛生無害で売りこもうなんて、いっぺんも考えたことがありませんよ」 「そりゃ決まってるさ。だから良は──さようマーク・ボランか、デビッド・ボーイにするしかないさ」 「私は、エルヴィス・プレスリーかポール・マッカートニーを考えていたんですがね。さいわい良は太るタイプじゃないし」  二人は黙ってにらみあった。結城は大きく肩をすくめて手をひろげ、バタくさいしぐさをした。 「あんた、良を六十歳の林一夫みたいにしたいの?」 「私はドロンのファンでしてね、彼が三十になる前に事故で死ぬよういつも祈ってましたが、四十をすぎてもそれはそれで美しいですよ、あれは」 「あれはね──!」 「三輪臣吾もそろそろ四十六、七──へたすると、八、九になるんじゃないですかね」 「かれは|ほんとう《ヽヽヽヽ》のシンガーだからね」 「結構。私は、良をほんとうのシンガーとして育てたいですね。ロック・シンガーの年をくったのこそ、みじめですよ──失礼だが、内海清也、どうです。たしか、三十──私と同じだから、八でしたな。いまだにロックンロールばかで、うすみっともないと云われてやしませんかね。ロックこそ、若いうちしかつとまりませんよ──あれは、永遠に、ひよこたちのものです。ジャズとはちがう」 「清也は立派な男だ。あなたから見れば、僕もせいぜいうすみっともない口でしょうがね」  結城は眉をつりあげ、あなたとロックの話をするのは真平だ、という心持が充分に伝わるようにした。 「あなた知ってるかね。ファッツ・ドミノやビル・ヘイリーが幾つだったか。リトル・リチャードなんざ、まだプレイしているんだよ。フランク・ザッパだってこの前日本に来た」 「世の中が幼児志向に向かっているのでしょうかね。成熟を拒否する無意識の心理が働くんでしょうな──幼児志向、女性志向、ですね。おそらく良なんかそのひとつのシンボルで、それで人気があるんでしょう」 「たしか心理学者の仙石さんがそんなことを云ってたな。だが僕やあなたはれっきとした男だ、ありがたいことにね。そうじゃないかね? だからこそ我々はこうして話しあっているわけだ──良というものを、ついにただのシンボルでおわらせてしまうか、それとも生きた人間としてのシンガーに育ててみるか、ね」 「私があれを人形にしたてようとしているとおっしゃる?」 「プレスリーが、セックス・シンボル以外の何物であるか、アラン・ドロンがシンボル以外の何であるかということだよ」 「それがいけませんかね。私は好きですよ」 「僕は好かない。不健康で、人間としては片輪だよ。プレスリーなんか、人間とは云えん。|なんて《ヽヽヽ》いうざまだ、不幸な不具者だ、見世物だよ」 「見世物がお嫌いですかな。しかし、われわれの稼業なんか、元をただせばテキ屋、香具師のたぐいですよ。奥山の因果物のむしろ小屋です。水芸におででこ芝居、熊娘、一寸法師、ろくろ首、やれつけそれつけにがまの油売り──私は気取りませんよ。芸能界なんぞ云ってみたところで、河原乞食です、賤民の群ですよ。ジャズ然り、ブルース然りです。ブルースは黒人奴隷の綿つみ歌だし、ジャズは淫売屋の音楽だ。ロックだって、ビートルズなんか、もとはイギリスの下層階級でしょう。どっちにせよ芸術の、名士のってしろものである方がよっぽど異常だ。おわりをまっとうする芸人なんざ、冴えませんよ」 「驚くべき考え方だな。あなたはテレビ電気紙芝居説なわけだね。しかし、芸能界の人間が自ら称して河原乞食だ、賤民だと甘んじているようじゃ、永遠に体質改善はできないね。裏工作と義理がらみの下水管てことだ。あなたはそれでいいかもしれないが、僕は多少困るね。住むには下水管よりゃ、明るいところが希望だ。それに、必ずしも、以後の世の中の流れってものが、そういう封建思想の残滓のどろどろしたものを理解する方向に行くかどうかだね。それは疑問だと思う。また僕はそういう方に行かせたくないからこそ、ニュー・クリエイション・ムーヴメントにずっと頭をつっこんできている。あなたにはわからないことかもしれないが、何かが変ろうとしているんだよ。変るべきときが近づきつつあるんだ──あらゆる方向に、何かを持った若者たちが世代交替であらわれつつあるんだよ、滝さん。これまでについぞなかった、生き方の革命が──ベトナム戦争に反対し、ビートルズのレコードをきいて育ち、長髪にすることで旧世代と根強く対立してきた連中が、世の中にあらわれてくる年齢になってきたんだ。  かれらは、音楽が好きだからプレイする、歌う、それをききにくる。かれらは自ら感じたように考え、考えたように創造する。ジャズもロックもない、クロスオーヴァーなんぞと云うまでもない、すべてただいいものはいいんだ。かれらの親たちが忠君愛国と云ったところでかれらは自由と愛を云う。倫理ではなくやさしさ、哲学のかわりに音楽──僕たちは、生き方を変えなくちゃいけないんだよ、滝さん、生かされるんでなく生きるために。『ヘアー』のテーマの『アクエリアス』を覚えているかな。エイジ・オヴ・アクエリアス、水瓶座の時代の夜明けがきた、愛と平和が世界をみちびくとき、理解と信頼が生まれ、自由と解放のとき──それとも『イマジン』は? 世界に国境なんてないと想像してごらん。私有財産も殺しあうこともない、天国もない、人間はみんな兄弟だと想像してごらん。たやすいことじゃない。きみはぼくを夢想家だと呼ぶだろう、だがぼくはひとりじゃない。ぼくたちは望んでいる、いつの日かきみがぼくたちの仲間になってくれると──それが、若者たちの理想だよ、滝さん。美しいと思わないか」 「美しい──ですね」  滝は結城の、目の輝き、滝に対してさえ話さずにはいられぬように情熱のほとばしり出てくる、少年のようにひたむきな顔を見ながら思わず云った。 「──たぶん、美しすぎます。私は下水管の中のゴキブリ、どぶ泥の蛆虫ですからね。私にはそんなやさしいユートピアを望む資格も、ふさわしさも、ありませんよ。それにまた、正直云って、そういう時代が来たとしたら、さぞかし私は退屈するでしょうな。私は泥仕合が好きなんです。因果物の見世物だの、やくざの世界のしきたりだの、セックス・シンボルを八つ裂きにするバッカスの巫女たちだの、レディ・マクベスだの──ありとあらゆる、どろどろした、臭気をはなつ、汚れきったどぶ泥が好きでたまらないんですよ。私が安心できるのはそれにひたりこんでいるときだけです。おそらく私もそういう汚れたシラミだからなんでしょう。しかし、先生」  滝はサングラスをはずし、目に笑いを含んで結城を見た。 「仮にそういうユートピアの時代が来たとしてですよ──良の奴が、そういう世界に生きられるでしょうかね? あいつが、そういう清浄な自由な世界の中で、はたして、いまのままの良で──その美しさを保っていられますかね」  結城の目が大きくなった。それから彼は何か目の奥がいたんだとでもいうようにゆっくりと目を細めていった。 「だからこそ僕は良をちゃんとした青年に育てあげてやりたい。あれだけの子を、むざむざだめにしたかない」 「あれは、そんなにいい子ですかね──いくら剪定したって、丹精したって、ケシの花はバラになりゃしませんよ、バラ香水の作り方でつくったって阿片しかとれやしません。私はあれが有毒で暗い根から生えてきた食虫花だからこそ、あれがアラン・ドロンにでも、プレスリーにでも、なれると見たのですよ」 「僕は賛成できん。そういう不健康な趣味は好かないな」 「私は好きですよ」  再び、二人は刃をふれあわせるような目で互いをにらみつけた。どちらも、いっぺんも声を荒らげもせず、ときどき微笑さえうかべて穏やかに話していたが、 「武蔵対小次郎ですね。なんだか、殺気がただよってた」  あとでたまたま傍にいた隆が頭をふって云ったくらいだった。 「どうしようもないさ。これは、我々の生き方そのもののちがいだ」  滝は肩をすくめた。 「むしろおれはどうしても彼は好きだし、彼のように生きてみたいくらいなんだぜ。しかし──だめだね。こんなこと、良の奴には、云うなよ、隆」 「わかってますよ。人間て奴は、悲しいですねえ。根本のところは何云ったって、何回歩みよろうとしたってダメで、自分の生き方で生きていくよかどうしようもない」 「悟ったようなことを云いやがって」  滝は笑ったが、結城修二をこよなく好きだと思う気持には、実のところ嘘はなかった。結城の情熱も、理想も、すべてが滝を魅了してやまないのだ。それは彼が対岸の人であるからといって、また良を奪おうとし、すでにその心に住みついてしまっているからといって変る感情ではなかった。滝は、感情と判断をたいていの場合きれいに切りはなして考えられるたちの人間だった。  できたら結城修二でありたかった──彼のような人間であれたら、どんなにか幸せであろうと思う。そして良を得て、良を幸福にしてやれたら──だが、あらゆる点で彼と結城には、ただふたつ──すなわち良への恋と、もうひとつは人前で見苦しいところ、平静さを失ったところを死んでも見せたくないという気質、それを除いてはまったく共有しているものはなかった。  生き方、信条、感じ方、考え方、好み、愛し方、すべてが対極にあった。良をはさんでそれは尖鋭化していたが、彼と結城のような相手は、対立せぬためには互いに対話をかわさぬこときりあり得ないのだ。  そして、滝が結城に寄せる敬愛は、彼のすべての煩悶や嫉妬や疑心暗鬼にもかかわらず常にたしかだったが、滝の方は、とりわけて鋭い勘で、だんだん結城は彼を嫌悪しはじめているらしい、と感じざるを得ないのだった。  何か含むところがあるのか、とも思うが、皮肉屋の彼がほのめかしても来ないのだから、わけがあってというよりは、敵対して断固として譲らない人間への漠然とした腹立ちなのだろうと考えていた。 (彼も、御曹子なんだからな。恵まれずくめで、のびのびと才能を育てて、どこでも重んじられ憧れられて──厭味のないのは人徳だが、まあ、おれあたりとはちがうさ)  苦労人の寛大さをもって滝はそう考えた。彼は結城という人間性そのものに好感をもっているのだから、それは良のことだの、意見の相違のみならず、相手が自分をいとうたからといって枯れしぼむたぐいの安手な感情ではなかった。滝もまたその点では自らの判断というものに全幅の信頼をかけていたのである。  かれらはその点でも少し似ていた。自分の判断を自分で把握して、他のいかなるものにも動かされぬことだ。だがそれは時にはずいぶんと不幸な特質だった。  結城は知らず、滝は時に心の底から、彼を敵手としていることに苦痛を感じ、良を争う関係を呪わしく思い、結城でさえなかったらおれはどんなに気が楽だったろうと、しみじみと考えずにはいられなかった。  そうして、三月もすぎた。『ラブ・シャッフル』はヒットチャートのトップまでのぼり、結城のプロデュースしているニューロックの白崎裕のレコードもどうやら完成のはこびになって、結城は五日の予定でアメリカにとばねばならなかった。  このところ、結城とのそうしたはりつめた関係と、良の冷淡な態度に癇を立てては自制することで、滝ほどのしたたかな男でさえ、いいかげん疲れきっていたのだ。彼は結城のアメリカ行きをきいて、内心、水入りの力の抜けるような安堵さえ覚えた。       *  * 「先生?」  いぶかしげに、まだ半ばはからかう目つきで、良が結城をのぞきこんだ。結城の顔は、こわばっていた。眉間に深い皺が寄り、珍しく、良の機嫌をとるようなようすを、一切受けつけない。 (何怒ってんだろう)  良は苛々してしきりにのぞきこみ、注意をひこうとした。結城が五日間、打ち合せのために渡米して、こともなく帰ってきてから、三日がたっていた。  三日前、電話で催促されて、羽田へ迎えに行った良と会ったときには、そんな不興の翳すら、見出すことはできなかったのだ。  恋人どうしになってから、三日以上会わずにいたことがないだけに、遠巻きにして、サインをねだったり、握手をしたがるファンたちをかきわけて待っていた良を見たとき、結城の目にも、顔にも、微笑にも、恋に溺れきった男の、まがうかたない照り映えるような輝きがあった。良もまた全身で甘えかかる表情を示して、その夜は、一刻もはなれたくないのが五日もひきはなされていた二人にふさわしく、接吻と愛撫に埋まって過ぎた。  結城はシカゴのダウン・タウンでさがしてきたいろいろな珍しいアクセサリーやレコードを良に見せ、よろこぶ顔を飽かず見つめ、良は結城の胸に頬を寄せて眠った。 「長かったよ──こんどは、良を、連れていこう」 「ぼくだって、淋しかったよ」  翌日も一日、一緒にいて、互いの存在を全身でむさぼりあい、二人ともこの上なく満ち足りていた。  それがほんの一昨日のことだ。昨日は良が特別番組のリハーサルで、会えなかった。 (それで一日おいたら、こんな風向きがおかしいなんて──まったく、わけがわかんないや)  良は肩をすくめて、料理に手をつけず酒ばかり啜っている彼を横目で見た。 (そういや、朝から変だったな、あの電話んとき)  出がけに、向うからかけてきたのだ。いつものことだから、何の気なしにきいていた。 「──今日、付合っていただけますかね?」 「何云ってんの。先生ったら変なの」 「ご予定は」 「七時っからあくけど。それまでビデオどり、うん、赤坂スタジオで」 「なるほど。じゃ『ロジェ』で待ってる」 「迎えにきてくれないの?──ま、いいや、あそこまでなら、五分だもの。じゃ済んだら行くよ」 「忝けないことで」 「何ふざけてるの、やだな」  そのときは、何の気もなく笑ったのだが、そのいつも行くレストランに行ってみると、結城はむっつりと黙りこんでいて、良があれこれさぐりをいれるのにも乗って来ない。いつものバーボンのかわりに、ジンをストレートで、あとからあとからあおって、「先生、車でしょう」と店のボーイが心配するくらいだった。 「大丈夫だよ、放っといてくれ」  結城は良を見ないで、ボーイに云った。 「今日は、酔わんさ、樽ごと飲んだって」 「ねえ、どうしたのよ、先生」  良はそろそろ腹が立ってきた、という顔になった。手のつけようもないので、しきりと運ばれてきた皿を片付けるのに専念していたが、それも済んでしまった。それでも三十分ぐらいは辛抱したのだ。突然、良はむかっ腹をたてて、立ちあがった。 「先生、ぼく帰るよ」 「そうか」  結城はゆらりと立った。かなり、悪酔いしているようだ、と良は見ていた。わけがわからぬのと、思いどおりにならぬ結城に、むかむかするほど腹が立った。 「どうした、乗れよ」 「いいよ」 「どうしてだ」 「先生酔ってるもの、いやだよ、酔っぱらい運転は」 「酔ってなんかいないさ。それに、酔ってるからってまちがいを起こすような腕じゃない。第一、じゃどうするんだ。誰か、別の約束でもあるのか、ええ?」  結城の声に、妙に含んだひびきがあったので、良は思わず彼をすかし見た。 「隆でも呼んで送って貰うから」 「ばか云え。──いいから乗れよ」 「家へ、帰るんだよ?」  良は念を押した。結城の目が、ぴかりと光ったようだった。と思うと、彼は良の肩をつかんで車に押しこんだ。 「わかってる。乗れったら、乗れ」  良はつきとばすように乗せられたベンツの座席で、びっくりして、結城がいきなりフルスピードまでアクセルを踏みこむのを見ていた。空気の中には、嵐の到来のきざしがひそんでいた。ふいに良の頬が青ざめた。 (まさか……)  もともと、A級ライセンスを持っている、スピード狂の結城だが、その夜の運転ぶりは、恐ろしく荒っぽかった。良は口もきけずに座席にしがみついていたが、車がどう考えても滝のマンションに向かっているのではない、とわかったとき、とうとうたまりかねた。 「先生、マンションて云ったじゃないか!」 「黙ってろ。舌をかむぞ」 「先生、よしてよ! こんなスピード出して、つかまったら、酔っぱらい運転てばれちゃうよ。ぼくおりるよ。止めてよ! ──先生!」 「とびおりたけりゃ、勝手にとびおりろ」  良は眉を寄せ、唇を結び、急に黙りこんだ。不安がつきあげてきたのだ。これまでの経験から、結城がこんなふうに強引になるときは、きっと、(危《やば》い)のがもうわかっている。良はおとなしくなった。  車は杉並を抜けて五日市街道をつっ走った。武蔵野の家までもう五、六分というところへきたとき、はじめて結城は前を向いたまま落着いた声で云った。 「僕のうちへ来るか」 「来るかって無理に連れて来ちゃって、何云ってるの!」 「怒ってるね」  結城はくっくっと面白くもなさそうな笑い声を立てた。 「別に、来なくてもかまわんよ。来るのがいやなら、そう云うんだね。そうしたら──」 「……」 「このまんま、つっ走るまでだ。中央高速道に出て、二百キロでとばしてやる。きょうは、だいぶ、酒が入ってる──確実に、心中できるよ」 「先生!」  良は度肝を抜かれて結城を見た。結城は平然としている。それも経験から、良には、結城という男がほとんど冗談を云わないことがわかっていた。急に、良は冷水を浴びせられたような気がした。 「どうしたの──何だっていうの!」 「自分の胸にきいてみろ。どうする、どっちがいい。このまま、僕と死ぬのと、僕の家へ来るのと」 「冗談よしてよ!」 「冗談? ──冗談じゃないよ」  結城はまともに良を見てにやりとした。 「冗談じゃないさ、良」 「ぼくがいったい──」 「家に来るんだね」  結城は肩をすくめた。 「このまま、ガードレールにつっこんだ方が、手間が省けていいんだが」  彼の目が、静かに良を見つめていた。良は息を呑み、それから急に震えだした。 (あれが、ばれたんだ──でも一体誰が……滝さん? きっとそうなんだ。畜生、あの密告屋の野郎──) 「おりろよ」  結城は車をとめ、顎をしゃくった。 「おとなしくなったところを見ると、心当りがあるらしいね」 「なんでぼくが……」  良は一応抗弁をこころみた。結城は舌打ちして、いきなり猫の子でも扱うように、良をつまみあげた。結城の激昂よりも、その平静さの方が、いっそう恐ろしかった。  良は地雷の上に乗っている心地だったが、怯えていると同時に、この始末におえぬ少年は心の深いところで、死とたわむれる猛獣使いのスリルを楽しんでもいるのだった。 (なんとか、切り抜けるさ)  結城はじろりと、小さくなっている良を見た。何を考えているかぐらい、お見通しだぞ、という目つきで、奥の寝室の中へ良をつきとばし、うしろ手に鍵をかけた。 「いったいどう──」 「云っておくが、ひとことでも嘘をついたら、そのときがきみのおわりだ」  結城は何でもないことのように笑いさえ含んで云った。 「僕は成行きしだいでは、きみを生かして帰さないつもりでいるからね。いいか、良──何もかも、きいたよ。わかるな、僕の云ってることは。何もかもだぞ」 「ぼ──ぼくは……」  良はスリルどころではなくなってきた。結城の目が、しだいに凄惨な内心をむきだしに光りはじめたのだ。良はベッドにもたれるようにしてすわりこみ、結城の目から目をはなさずにいた。 「誰が……滝さんがぼくを──」 「彼は関係ない。いいか、良、僕はきみがひとこと、嘘をついたら、とたんにきみの首をへし折ってやる。きみを殺す覚悟はできてるんだよ。さあ、云いなさい。いつ、佐伯と会った?」 「せ──先生が行った次の次の日……」  絶体絶命になった良は喘ぐように云った。 「佐伯さんから電話で……食事ぐらいいいだろうっていうから──」 「僕がきみを連中と手を切らしたときに、何て云ったか、覚えてるね。云ってごらん」 「もう──二度と、白井先生と、佐伯さんと個人的に会っちゃいけないって……」 「じゃ覚えていたんだな。よかろう──で、佐伯と会って、どこへ行った──ええ?」 「『ミモザ』──」 「奴さんの御親友の店だな。何時までいた、それから何をした──ええ!」  腕組みをしたまま立って、良を冷やかに見おろしていた彼は、やにわに腕をほどいて、黙りこんでしまった良に近づいた。殴られるとびくっとする良の、衿をつかんでひきずりあげ、近々と、妙に哀切な、しかしそれだけにいっそう恐ろしい目で少年をのぞきこむ。  良はその目に耐えられず、震えながらぎゅっと目を閉じてしまった。投げやりで、行きあたりばったりな良には、もう、佐伯から何カ月ぶりで電話があったときに何の気もなくその誘いにのった自分の心理さえわからなくなっていたのである。 「──きみでさえ、いくらかは、羞恥心てものを持ってるんだな」  結城は静かに云った。彼は我知らずというようすで、良のきゃしゃな首にかけた手に、恐ろしい力をこめていた。 「あれだけ僕になついていながら、僅か五日、僕が留守にしたあいだにちょっと声をかけられるとそいつにふらふらくっついていくきみでさえ……そうだ、僕にはわかっているよ。きみは──きみが罪の意識でも持ったり、僕の目をぬすんでやろうというような気持でそうする子なら、まだ僕はいいんだ。そんな奴は、ぶち殺すか、足蹴にして二度と面を見せるなと云ってやれば済む。だがきみは……きみは自分のしたことの意味さえ、いまのいままで気づかなかったんだ。僕にはわかっている。きみはいまになって事の重大さに怯えてるんだね」  良は息をつめて彼を見まいと目を閉じていた。しだいに凄惨な悲哀に歪んでくる彼の顔が、たまらなく恐ろしかったのだ。一体どうして、あのとき佐伯の誘いにのったのだろうと良は思った。そのときは、何の意識も、それが結城への裏切りであるという意識すらなかった。 「許して──ごめんなさい……勘忍して──もう絶対……」  良は喘ぎながら思い切って云いかけた。とたんに、結城は爆発した。 「許してだと?」  いきなり猛烈な平手がとんできた。一撃で良のからだはうきあがり、ベッドの上に崩れ落ちた。頭がじーんと鳴って、しばらく身動きできなかった。  次の瞬間、手負いの獅子と化した結城が襲いかかってきた。髪をつかんでひきずりまわされ、腕をねじあげられた。 (殺される!)  良の、真赤に染まった頭の中で、その絶叫だけがひびいていた。あらがうどころか、弱々しく頭を庇おうと腕をあげたきり、凄まじい恐怖に悲鳴さえ凍りついていた。いたいたしく圧倒的な暴力にさらされている少年が無力で、憐れであればあるほど、結城の嚇怒は火を注がれるようだった。  彼は、相手が自分の半分もないきゃしゃな、虚弱な少年であることも、念頭にないようだった。 「きさまは、魂の底まで売女なのか。ひとかけらの真実も、節操もないのか。──いいか、きみなんか、何ひとつ知っちゃいない餓鬼なんだぞ。うまく立ちまわったつもりでいたんだろうな──ご生憎さまだ、きみを売ったのは、当の佐伯だ、きのう奴が電話してきて話があるという。僕の旅行中に、僕の小鳥がおとなしくしてたかどうか、知りたくないかというわけさ。奴はね、きみとのこと以来白井みゆきの婆さんと気まずくて、小遣いも思うにまかせないんだ。僕が自分を、恋人を寝とられたとんま野郎にするなんざ、耐えられないってことは承知の上だ。業界じゅうに知られたくなきゃ、|まず《ヽヽ》五十万とふっかけてきた。はらったがね、このまま済ませる気はないよ。許せだと? もう絶対しないって?──僕と死ぬか、良、僕と死ぬか? 僕はだめだ──きみのような子を生かしておくわけにはいかない。きみは毒だ。これまでは、なんとか無事だったが、それははじめからわかっていた。僕はこれからきみが生きているかぎり、きみを見るたびに、きみを抱くたびに、これは佐伯に抱かれた肌だ、佐伯に吸われた唇だと思わないわけにはいかない。云ったはずだよ、良、云ったはずだ──僕はきみを生命がけで愛しているんだとね。僕はきみとちがって、一切嘘というものを云わないよ。僕が人を愛するというのは、そういうことだ、僕が愛していると云うことは──良、僕になら、殺されてもいいね? すぐに、僕も追いかける、どこまでも抱いていってやる──良、いいか……」 「先生っ!」  良は真青になっていた。結城は本気だった。喘ぎながら目を開いたとき、良の目にうつったのは、あふれおちる涙をぬぐおうともせず、哀切な輝きをうかべてまぢかくのぞきこんでいる結城の顔だった。結城の逞しい指が、ゆっくりと這いのぼってくる。良は激しくかぶりをふりつづけた。恐怖に息がつまり、囁くような声しか出なかった。 「死にたくない──殺さないで……死ぬのはいやだぼく……」 「僕と一緒に死ぬのがいやか?」  結城は呻くように云った。 「だがもう遅いよ──なに、苦しめやしないよ。すぐ済む……すぐ楽になる。少しだけ、我慢するんだよ──良、いい子だ」  涙に濡れた目がやさしい、悲痛な光をうかべていた。結城の指が、ついに良の咽喉に届き、愛撫するようにさぐり、握りしめた。良の目からも涙がどっとあふれだした。 「細い首だね。きゃしゃな……」  感心したように結城は囁いた。 「すぐ済むよ……」  ゆっくりと、指に力がこもってくる。もうだめだ、と良は目の前が真暗になった。その気になれば、結城の力は、一分とかからずに少年の首をへし折れるだろう。 (死ぬんだ。殺される……)  妙に客観的な気持で、良は思った。そのときだった。良の唇は無意識に、何を云っているかもわからぬまま、動いていた。 「滝さん……」  結城の指がとまった。良はかすれた声で呼んだ。 「滝さん──滝さん……」 「良?」  結城の指は、まだ咽喉にしっかりとはまりこんでいた。彼は目を細くし、囁くように云った。 「良──滝さんが恋しいのか? 滝さんがどうした……云ってみろ──ええ!」 「ああ……」  良は喘いだ。もう何がどうでもいい、投げやりな快さが、良をとらえていた。ふいに、結城は指をほどき、ぐったりとなかば意識のうすれかかっている良のジーンズをひきおろした。  いきなり、身体のひき裂かれるような激痛におそわれて、良は激しい悲鳴をあげ、失神の安息からひき戻された。恐ろしいいたみが、荒々しくつきあげ、つきたてて来た。 「や──やめて!」 「ええ……お前は、滝が好きなのか──いつも、きみは彼のことなんか、嫌いだと云ってたな──今日は、もう嘘はつかせないよ。とことん、本音を吐かせてやる──それできみを責め殺すことになっても、僕はかまわん。云ってみろ、滝が好きか。云えよ! 云わないか、つき破るぞ!」 「い──いたい……いたい──助けて……」  良は泣き叫んだ。結城はまったく容赦しなかった。すさまじい勢いでひき裂かれるたびに良は鋭い悲鳴をあげた。 「ぼ──ぼくは滝さんのことなんて……ああっ! やめてえ! ぼく……は……」 「なら、何故だ! 何故、奴を呼んだ! 僕に殺されそうになって何故、奴の名を呼んだ──良! 答えしだいでは、どうするか──わかってるか!」 「ほんとう──ほんとうだよ……どうしてあんなひと──ぼくにあんなことしたのに──いつだって……先生、お願い、勘忍して──きいて……ぼくわるくないんだ……みんなあのひとがわるいんだ……ぼくは──いたい……」 「良! 滝はきみを抱いたのか? そうなんだな? いつだ──云うんだ。何もかも、あらいざらい云ってみろ、きみのその汚らわしい嘘つきな口から、今度こそ、ほんとうのことを残らずしぼり出してやる。殺したってかまわん。云え……」 「あ……」  良が意識を失いかけたとたんに、結城はむごたらしい攻撃を加えたので、良は鋭い声をあげた。ベッドの上はすでに鮮血で真赤に染まっていた。良は啜り泣きはじめた。結城は容赦しなかった。結城の残酷な拷問にしぼり出されるように、良はとぎれとぎれに何もかも告白した。山下から逃れようとして滝に犯されたこと、滝の手で何十人の男女に売られたこと、ブラッドのこと、清のこと──ことばがとだえると、凄まじい激痛が脳天までつきあげられた。息も絶え絶えに泣きむせびながら、しかし、良の中には、なんとかして、結城の瞋恚を他へそらしてしまおう、助かるためにはそれしかない、ずるい計算がうごめいていた。  衝撃にしだいに蒼白になってゆく結城は、しばし良をさいなむのも忘れ、そもそもの弁明のしようもない佐伯との裏切りも思わず失念しているようだった。何もかも、滝のさしがねだ、と良は訴えた。滝がじぶんを傷つけ、歪めて、こんなにしたのだ。きさまは淫売だ、覚えておけ、と云われた、とも云った。結城は返事をしなかった。目がすわり、異様に光り出している。苦痛に喘ぎながら、良はひそかに、これで助かったのだと思っていた。 [#地付き](6につづく) 〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年九月二十五日刊